『万葉集があばく捏造された天皇・天智』
の読後感想と佃收説
(渡辺康則著、大空出版)

1. はじめに

 天智天皇と天武天皇は皇極天皇から生まれた同母兄弟であると、日本書紀・巻第28は述べている。また、巻第23では共に父は舒明天皇としている。既存の日本史はこれを認め、中大兄皇子(天智天皇)は同父母兄弟の兄で、大海人皇子(天武天皇)は弟としている。
 しかし、これに対して、以前より多くの識者が疑問を呈している。どう考えてみても天武天皇の方が年長ではないのか、天智天皇の実の娘を4人も同父母弟の天武天皇の妃にすることはあり得るのか、と言うようなかなり説得力のある理由が述べられている。
 天智天皇と天武天皇の関係に留まらず、既存の日本古代史に対して、様々な分野の方々から、疑問が呈されるようになってきた。歴史はもともと自然科学を含めた多くの分野の知見が必要な総合的な知識体系であり、インターネットの普及などにより多くの人々が古代史についての情報を得ることができるようになったこと、今までの日本古代史学の研究が文献の解釈に重きが置かれ過ぎていたことなどが、その理由として考えられる。
 この本は、題名が表すように、天智天皇は大和朝廷の皇子ではないことを万葉集があばいている、ということを明確に示すことを主な目的としている。著者の渡辺氏は、新聞記者、「サンデー毎日」の編集委員等を経て、作文教室等の塾を主催していると書かれており、歴史や和歌の世界に大変詳しい方である。詳細な鋭い指摘により、読後の充実感を味わうことができる労作である。この本の記述を辿っていくと、やはり中大兄は皇子ではなく、既存の日本史の書き換えが必要であると感じる。この本は、私達一般の読者に対して問題提起しているだけでなく、既存の日本古代史の研究者たちに「この矛盾をどう解決するのか!」と迫っているようにも感じられる。
 和歌に詳しくない私達が感想を書くことは憚られる。しかし、読んでいくにつれ様々な疑問が浮び、中大兄が皇子であるかないかに留まらず、この時代の国の在り様などに想いが行く。そして、それらについての疑問を解き明かすため、佃收説との関連を述べざるを得ない。まず、本書の読後感想を述べ、佃收説との関連に触れたい。

2. 各章の要旨と感想

 序章では、まず万葉集の成り立ちを述べ、上下2冊本全体の要旨が示される。第1章以下では、分節化された各々の内容が詳しく述べられる。
 1章では、万葉集1巻7番歌~21番歌が詳しく分析される。万葉集の一つ一つの歌を丹念に辿り、天智天皇についての歴史の捏造を万葉集は告発をしているとし、これを万葉史観と呼ぶという。
 2章では、日本書紀の記述を詳しく調べて、天智天皇は大和朝廷の皇子ではなく、九州から東征したことを示そうとしている。
 3章では、今まで舒明紀から斉明紀まで皇太子は中大兄とされてきたことに対して、万葉史観の立場から考察を加え、斉明紀の皇太子は大海人で、天智即位前記の皇太子は中大兄とする。また、天智6年に近江遷都するまで、天智は九州に居たとする。
 4章では、「日本書紀天智紀」と「善隣国宝記」の唐使節についての記述を比較し、唐使節は畿内倭京入りしていないことを確認する。そのことにより、称制天智紀の天智朝は九州王権であり、大海人皇子の大和朝廷と並立して存在しており、天智天皇は大和朝廷とほとんど無関係であるとする。
 5章では、藤原不比等らが日本書紀によって歴史を捏造したことに対して、万葉集、日本書紀を長屋王のグループが書き換え、万葉史観が示されているとしているが、書き換えた詳しい時期、主な実行人物、書き換えた方法等が詳細に考察されている。
 終章では、「権威を疑う」として、定説と呼ばれるものが如何に根拠なく信じられているかを、実例をもとに示している。
以上が本書の大まかな構成である。以下、各章の要旨と感想を述べたい。

序章…万葉コードがいざなう

 万葉集は従来素朴さを特徴とする国民歌集と見られてきたが、息を殺して耳を傾けるべき政治的歴史的な書、告発の書でもあるとされる。20巻ある中で、巻1,2は核として最初に編集された。この巻1,2に関しては現在の形の「現万葉集」と共に「先行万葉集」が存在していたこと、また、この巻1,2の完成は日本書紀の完成と連動していることが、古学の研究を参考にしながら示される。
 特に巻1の最初の1番歌~21番歌に注目している。歌の前の題詞で、中大兄に皇子等の肩書きが付かず、天皇の歌は御製歌、皇子や皇后等については御歌とされるにもかかわらず、中大兄の歌は単に歌としていることが示される。続いて、「類聚歌林」からの左注による説明が歌としては極めて難解なものであり、不自然な案内となっていることなどが指摘される。
 日本書紀では、持統天皇と組んだ藤原不比等によって歴史が改ざんされている。この歴史改ざんに対して、天智天皇は畿内大和朝廷の系譜にないことを、現万葉集が告発している。長屋王を頭とするグループによって、「先行万葉集」が「現万葉集」に書き換えられて、現万葉集は告発の書となり、この万葉集が指し示す歴史観を万葉史観と呼ぶ。
 述べられる歌はすべて巻末の資料に見やすく示され、万葉集研究者年表、引用参考文献も資料として掲げられていて、論拠となる資料は他の本を見なくて済むように工夫されている。
 本の最初で、日本書紀が「大和朝廷」の表記を使っていないことを理由にして「大和朝廷」を「倭王権(やまとおうけん)」と表記するとしている。しかし、「倭」は魏志倭人伝他の外国の文献にも出てくる古くから使われている国名であり、倭の五王の「倭」でもある。「倭」は必ずしも大和にあるとは言えず、適切ではない。この文では、意味が不鮮明になることを避けるためにできるだけ「大和朝廷」と書く。また、畿内に権力基盤をもつ王権に対抗する権力を「筑紫王権」としているが、筑紫、筑後、筑前、肥前、肥後、豊後…等の地名の中で、どこを根拠地にして成立したか等の議論を全くせずに、筑紫としてしまうのには疑問が残る。九州にあったことは間違いなさそうだから、九州王権の方が適切だと考えられるので、この文ではできるだけ九州王権と書く。

1章…天智東征を詠う

 巻1の三山歌(13~15番歌)を古学の見解を詳しく紹介しながら考察し、中大兄について、題詞に肩書きが付かない、歌を御歌と表記してもらえない、注を付けてもらわないと天智天皇の皇子時代の名前だと認知してもらえないことを確認する。三山歌は中大兄が皇太子などではないことを示すと共に、日本書紀の皇極紀皇極4年6月「…中大兄を立てて皇太子とす。」の記事に誘導し、書紀の記事は捏造であることを示しているとする。題詞、左注によって中大兄は皇子でないことを示し、歌本体で天智東征、天智は九州からやって来たことを示していると著者は言う。
 中大兄は皇子でないことを示していることは説得力がある。しかし、天智東征はどうだろうか。「しかし、斉明の筑紫遠征は百済救援ではなかったのです。斉明が軍船団を組んで筑紫へ乗りこんだのは、のちに天智天皇となる筑紫王権を征討するためだったのです。しかし、筑紫征討は失敗に終わり、斉明軍、斉明が亡くなってから大海人軍は、そのまま難波に逃げ帰ります。難波へ向う大海人軍団を筑紫王権の軍団が追討しますが、今度は逆に播磨灘で倭王権の返り討ちにあって逃げ帰ります。」(上P.88)と書いている。万葉集巻1は原則的に時代順に歌が並んでいる。巻1の8番歌~15番歌までが時代順に並んでいるとすると、それを説明するためには、上に記したような歴史的事実になるとしている。ここで、私達は一気に頭が混乱し、戸惑いを起こした。冷静になり何回も読み返してみて、やはり、この議論は「森を見ずに、木ばかり見ている」議論だと考える。「木(和歌)を見ているが、森(歴史的諸条件)も見ず、山脈(東アジア全体の情勢)も見ていない」ように感じる。
 斉明の筑紫遠征は斉明7年(661年)1月のことだ。この時代がどのような時代だったのか、の認識が抜け落ちている。斉明6年(660年)7月百済は新羅・唐連合軍に滅ぼされ、9月百済の使者が国難を告げに来朝し、10月王子豊璋の送還と援軍の要請をしている。一般的には、百済への援軍は急務であり、このために斉明は斉明7年1月筑紫遠征をしているとされている。これが、百済遠征ではなく、筑紫王権征討とは…。それなら、斉明や大海人の大和朝廷は、百済への援軍をしていないという事になる。それなら、日本を治めていたのは九州王権の天智天皇であり、大和朝廷ではなくなる。それなら、斉明は天皇ではない。そうすると、孝徳、皇極、舒明も天皇ではなくなるのだろう。また、直ぐ後で詳しく述べるように、日本書紀の上では大海人は斉明と全く行動を共にしていない。日本書紀に詳しく描かれた大海人(天武天皇)の気質から考えても、斉明と一緒に行動したとは考えにくい。更に言えば、大海人は本当に斉明の子かどうかは、検討が必要だ。  この後、天智2年(663年)8月白村江の戦いに敗れた倭は、郭務悰等による唐の占領軍によって筑紫が占領される。戦後の米軍マッカーサーによる占領と同じようなものだろう。このようなときに、大和朝廷と九州王権が新羅や唐と戦わないで、互いに征討しようとするだろうか。
 その時代の権力の構造や力関係等は、当時の歴史的な諸条件等からまず論議されるべきである。その議論を抜きにして、和歌の解釈の整合性を第一義的にするものではないと思う。
 続いて、額田王の16番歌は、称制天智朝の天智は大和ではなく筑紫に居たことを明るみに出していると著者は言う。巧みな解釈には美しさを感じるが、内容には疑問が残った。全般的に、額田王をめぐる中大兄と大海人の三角関係が三山歌群(13~15番歌)によりほのめかされ、天智朝の6首(16~21番歌) はこの関係により鑑賞するように案内されているとする。
 次に、額田王に関する17,18,19番歌は、天智が筑紫から不本意ながら近江遷都をしたことを、白日の下に明るみに出していると述べる。18番歌の左注は山上憶良の類聚歌林を引用して、17,18番歌は天智天皇の歌と訂正し、19番歌は額田王の歌と改めさせている。日本書紀称制天智紀天智5年3月「三月に、皇太子自ら…」と記されている様に称制天智紀では天智天皇は皇太子という肩書きで記されており、日本書紀称制天智紀天智3年2月では「…天皇、大皇弟に命して…」と書き直され、天皇であって皇太子である人物は天智しかいないことを示し、18番歌の左注と連動させてこのことを示しているとする。章の最後の節で8番歌の左注「…但し、額田王の歌は別に4首あり。」の考察からもこのことを導き出せるとする議論は興味深い。以上のことなどから、天智天皇は九州から東征し、大和に入りたかったのだが、入れず、不本意ながら近江に遷都したことを示しているとする。「…孝徳、斉明朝から称制天智朝に至る約20年間は、統一王権が存在しなかったのです。孝徳朝は難波と倭に権力が並立しました。斉明、称制天智朝は筑紫、倭の二王権並立状態だったのです。…不比等の歴史改ざんの目的が二王権並立の隠蔽にあるからです。」(上P.115)とする。そうすると、称制天智紀の後の天智7年(668年)からは、天智が天皇だったとしていいのだろうか。既存の日本史では、中大兄は斉明の皇太子であるから、斉明朝→称制天智朝→天智朝→天武朝と理解し、天智朝までは政権がスムーズに移行し、天智朝から天武朝へと変わるに際に壬申の乱があったと理解している。天智が九州の王権であるとするなら、斉明朝から天智朝へ変わっていく際に、どのような乱やあるいはそれに代わるような歴史的な事件があったというのだろうか。続いて、「日本書紀の天智紀を見る限り、天智6年まで天智が畿内にいたことを確認できる記事はありません。それは、天智が畿内にいなかったからです。…これまでは斉明の亡骸を筑紫から畿内にまで運搬したのは中大兄とされてきましたが、事実ではありません。斉明の亡骸を難波へ運んだのは、中大兄ではなく、大海人です。…」(上P.123,124)とする。この論法はおかしい。日本書紀では、大海人は舒明天皇の子であるとする記事でと、天武即位時に天武天皇の幼少時の名前を記した記事での2回しか出てこない。この2回の記事だけでは、当然大海人も畿内にいたことは確認できない。なぜ、天智だけが斉明と一緒に居なくて、大海人が一緒に居たと言えるのか、理解に苦しむ。
 天智天皇の17,18番歌に対して、19番歌の額田王は天智をコケにしているとする。更に、有名な額田王と大海人が恋のやり取りをする20,21番歌は、天智天皇の猟後の宴席の席で歌われ、天智天皇をコバカにしており、「天智朝なんて大したことはない」ことを示す総仕上げであるとする。
 1章の内容は、天智天皇に関することを万葉集は告発しているとする。天智天皇は実際には皇太子ではなかったことを示していることは了解できても、筑紫から来た東征王というのは、他の歴史的条件からも考えてみなければならないことであり、大いに疑問が残る。ただ、歌の解釈や鑑賞等については、多くを学ぶことができた。

2章…中大兄皇子、不在の証明

 1章で、万葉集は、中大兄は大和朝廷の皇子ではなく、筑紫から東征したことを訴えているとした。(万葉史観)この章では、日本書紀の記事によって、万葉史観の裏づけ作業をおこなうとする。中大兄の名前が出てくる記事は、日本書紀皇極3年、皇極4年(大化元年)の2年間だけであり、また、中大兄に皇子が付くことはない。
 皇極4年の乙巳の変についての記事を考察し、「中大兄は蘇我本家を倒したものの、十分な権力基盤のない倭に居続けることはできなかったようです。権力者を倒しただけで、命からがら筑紫、あるいは難波に逃げ帰ったというのが真相だったのでしょう。」(上P.159)「…皇極朝の皇太子は古人大兄ということになります。…」(上P.164)とする。蘇我入鹿が殺される大極殿の中に古人大兄は居たが、中大兄は中に居なかったこと、殺害後に古人大兄は自分の宮に走って入ったが、中大兄は法興寺に入ったこと(自分の宮がなかったのでは)などから、著者はこのような結論を下している。
 そのように解釈できないことはないかもしれないけど、この解釈は強引な感じがする。仮に、中大兄や藤原鎌足が大和朝廷内で十分な権力基盤がないとした場合、このような者が、蘇我入鹿の剣をはずさせたり、十二の門をすべて閉鎖するようなことができるのだろうか。著者によれば、中大兄は九州王権に属していると言う。乙巳の変は大和朝廷での出来事である。また、大和朝廷と九州王権は対立していたと言う。仮に、九州王権に属する中大兄が大和朝廷の重臣蘇我入鹿を殺害したとなれば、大和朝廷と九州王権との間に直ちに戦争のようなものが始まるだろう。この解釈は大いに疑問が残る。
 孝徳朝は乙巳の変の直後の政権であるにもかかわらず、蘇我氏を称揚しており、蘇我氏が使った冠位を平気で使っている。また、その政治システムは蘇我氏が推進した推古朝と皇極朝のシステムであることを指摘し、日本書紀の記述よりはるかに強く蘇我氏の影響力があったと述べている。このことから、孝徳朝では、中大兄の影響は感じられないとし、「中大兄は蘇我本家を倒したあと、孝徳朝ですっかり影が薄くなります。というより、気配そのものが消えてなくなります。飛鳥から逃げだした印象です。書紀は強引に中大兄を皇太子にまつりあげますが、…孝徳朝で中大兄による政治が行われた形跡は皆無です。…」(上P.169)とする。
 藤原不比等は、皇極紀皇極4年「…中大兄を立てて、皇太子とす。」孝徳即位前紀「…中大兄を以って、皇太子とす。」と日本書紀を書き換え、孝徳朝から斉明朝までの皇太子が自動的に中大兄に置き換わるようにしたとする。それに対して、前章で述べたように、万葉集13~15番歌は、中大兄が皇子でないことを示唆し、同時に書き換えられた皇極紀皇極4年の立太子記事に注意を喚起しているとする。
乙巳の変の直後の、孝徳即位前紀皇極4年6月「乙卯に、天皇、皇祖母尊、皇太子は大槻の樹の下に群臣を召し集めて、盟はしめて曰く、<天神地祇に告して曰く、「天は覆ひ、地は載す。帝道唯だ一なり。而るを末代澆薄らぎて、君臣序を失ふ。皇天、手を我れに假りて、暴虐を誅し殄てり。今共に心血を瀝づ。而して今より以後、君は二政無く、臣は朝に弐無し。若し此の盟に弐かば、天災し、地妖し、鬼誅し、人伐たむ。皎きこと日月の如し」>」の日本書紀の記事をあげる。以下この記事は、[孝徳記事]と略記しよう。[孝徳記事]は、孝徳天皇、皇極皇太后、皇太子が、群臣を集めて盟約を結ばせている。[孝徳記事]の内容として、著者は次の文を示している。「…天は覆い、地は載せる。帝道はただ一つ、これに則っておこなわれる。これから先の代に人情が薄れ、天は覆い、地は載せるという君臣の序列が乱れるなどということにでもなったなら、天は我れの手をとおして、暴虐を罰し戒める。このために、今こそともに心血を注ぐ。君主に二つの政治などなく、同様に臣下に二つの政府はない。もし、この盟に背くようなことがあったなら、天が災いをくだし、地が妖しいたたりをくだす。鬼が天誅をくだし、人が伐するだろう。きよきこと日月のごとくである。」(上P.178)
  次に日本書紀に出てくる「鬼」をすべて詳細に検討し、斉明紀にあらわれる鬼は蘇我蝦夷を、イメージさせるとし、更に「扶桑略記」は明快に「鬼は蘇我豊浦大臣」と断言するとする。このことと斉明紀に鬼が現れている記事があることから、「孝徳天皇、皇極皇太后、皇太子が盟約した中に出てくる鬼は、「天は覆い、地は載す」、「君に二政なく、臣に二朝なし」に違反したときに天誅をくだすというのです。…皇極が立ち会った盟約に鬼が出てきて、皇極と同一人物である斉明朝に同様に鬼が出てきます。ということは、斉明朝になると同時に、広義の倭朝廷(大和朝廷)に二つの権力が存在したということです。斉明朝には対立する権力が存在したのです。斉明朝は畿内倭にあったわけですから、もう一つの権力は筑紫ということになります。斉明朝にはいるや、筑紫王権が倭王権に公然と反旗をひるがえしたのです。正統性のないのが筑紫王権であるのはいうまでもありません。正当なる斉明王権に対抗して筑紫に王権をひらいた権力に対して天誅をくだすために、蘇我蝦夷の霊はわざわざ倭から西の筑紫へと移動したのです。」(上P.190,191)と述べる。
 [孝徳記事]で、著者が内容として示した文と同じ部分を、小学館の日本書紀は次の様に訳している。「…天は覆い、地は載せる。帝道はただ一つである。しかしながら末代には人情が薄れて、君臣は秩序を失った。天は我の手を借りて、暴虐の徒を誅滅した。今ここに誠心をもって共に盟う。今後君は二政を行なわず、臣は朝廷に二心を持たない。もしこの盟約に背けば、天災地変が起こり、鬼神や人が誅罰する。これは日月のごとく明白である。」
[孝徳記事]の「君臣序を失ふ」は、乙巳の変の前は蘇我氏の横暴により君臣の秩序が失われていたこと、「暴虐を誅し殄てり」は蘇我氏を誅滅したことを表している。乙巳の変の直後であり、一つの国家としてまとまっていくという盟約を群臣に結ばせた。「君は二政無く、臣は朝に弐無し」は、国には二つの権力が無く臣下には二人の主君はいないと書かれているが、一つの国家としてまとまっていくことがどうしても必要なことを表現したものであり、二つの権力になったときに、鬼が天誅をくだす(現れる)ことに力点が置かれたものではないと思われる。この点で内容として示された著者の文には違和感がある。
 更に、論理学での[国に二つの権力 ⇒(ならば) 鬼が天誅をくだす(現れる)]の逆の命題は[鬼が現れる ⇒(ならば) 国に二つの権力]であるが、よく知られているように、逆は必ずしも真ではない。[孝徳記事]と「鬼」をめぐる考察から、二つの権力が存在することを結論づけることは、逆は真だと言っていることに他ならず、かなり無理があるように感じられる。
 最後に「中大兄の事業とされる二つの大事件のうち乙巳の変は実際にあったのですが、中大兄による古人大兄一族殺害はまったくのフィクションです。」(上P.203)とし、「…このあとに見る大海人と古人大兄の、二人の即位辞退の記事の類似性からもうかがえるように、二人は同一人物です。」(上P.225)とする。古人大兄の謀反を自首して知らせた笠臣志太留(垂)についての続日本紀の功労の封地を与える記事の内容を検討すること、古人大兄一族殺害の共犯者の中に天智側の二人が入っていること(万葉史観による記事書き換え)、子供は殺されたとされる古人大兄の娘である倭姫王が天智即位のときに天智の皇后になっていることなどから、古人大兄一族殺害は日本書紀の捏造としている。
 これについては、検討が必要かもしれない。ただ、大海人と古人大兄が同一人物であることはどうだろうか。大海人の吉野入りと古人大兄の吉野入りの記事がそっくりだとして、この二つの記事は同一記事の使い回しだとする。そのことから、どうして、二人が同一人物と結論付けられるのか。二人は別々の人物として、片方の人物にない行動を、もう一方の人物の実際の行動から付け加えてしまうことが、一番考えられることではないか。同一人物としてしまうことは、論理が飛躍し過ぎる、と思われる。

3章…斉明七年の皇太子二人

 「…日本書紀は舒明紀から称制天智紀までの皇太子がだれなのか、始終一貫あいまいにし続けています。これまでは、このあいまいさを検証しないまま、「中大兄のこと」と決めつけてきました。そして、それがそのまま定説となってきました。」(下P.15)、と問題提起する。日本書紀では、中大兄は舒明天皇の殯で東宮(皇太子)として誄(しのびごと)をしている。また、皇極4年6月皇極が孝徳に譲位したときと孝徳即位前紀6月孝徳政権発足のときに中大兄の立太子記事がある。この記事のために、舒明紀から称制天智紀までの皇太子はすべて中大兄とされてきたとする。しかし、日本書紀自体は、斉明朝の皇太子は中大兄と記述していない。皇極4年6月と孝徳即位前紀6月の中大兄の立太子記事は藤原不比等が細工したとし、斉明6年5月の皇太子は、漏剋を造るという記事の内容から考えても大海人であるとする。次に、斉明7年(661年)の天皇と皇太子の行動に関する日本書紀の8つの記事を比較検討し、斉明紀と天智即位前紀は別々の資料を使って編集されたとする。そのことから、斉明紀と天智称制前紀の皇太子は別人であったと結論し、(この結論には疑問が残るが)斉明紀の皇太子は大海人皇子、天智称制前紀の皇太子は中大兄ということになるとする。更に、「…大海人は一貫して斉明と行動をともにしていて、斉明の亡骸と一緒に畿内に戻ります。中大兄は初めから終わりまで筑紫の長津宮に居住し続けたことになります。」(下P.33)そのことは、日本書紀の宮殿の移動記事で確認でき、万葉集が誘導している通りであるとする。また、天武紀の記述では、天智紀を1年から4年までの4年間としているのに対し、天智紀の記述では天智紀を称制期間を入れて10年間としている。これは、称制期間までの天智は筑紫にいて、日本書紀の記述に筑紫王権の資料が使えなかったからだとしている。天武紀と天智紀の記述が異なることは注目すべきことであるが、この理由には疑問が残る。
以上のことは、「ふつうに書紀を読むかぎり、天智称制前紀-称制天智紀(斉明7年-天智5年)の皇太子が倭へ行った事実は見られません。何の先入観ももたずに日本書紀を読んだ結論です。」(下P.38)と述べる。一体、古代の世界の出来事を古事記や日本書紀などを資料として論じるとき、「何の先入観ももたずに読む」ことは可能だろうか。誰もがある部分は正しく、ある部分は間違っていたり、書き直されたり、あるいは書かれていなかったりしてるとして、自分の説を展開する。このことが可能だと考えてしまうことには注意を要する。実際、日本書紀では、大海人が斉明(皇極)と行動を共にする記事は全くない。しかし、何の先入観ももたないとする著者は上のように「…大海人は一貫して斉明と行動をともにしていて、…」(下P.33)と述べている。
全般に論理展開の際の言葉が正確ではない。「証拠である」と「示唆している」は明らかに異なる言葉である。斉明紀に蝦夷の記事が33回出てくるが、称制天智紀には全く出てこないことを示し、「…、これは称制天智紀の舞台が筑紫である証拠です。畿内なら蝦夷があふれていたはずで、蝦夷が記録に残ることをしないわけがありません。」(下P.43)としている。このことから、「称制天智紀の天智は畿内倭にはいなかったのです。天智6年に近江遷都するまでの天智、中大兄は筑紫にいたのです。筑紫には蝦夷はいなかった。…称制天智が筑紫を基盤とした権力だったことを、はしなくも物語っています。」(下P.44)とする。この記述は、証拠と言えるかどうか?蝦夷が出てこないもっと異なる理由は考えられないだろうか。と言うより、この時代がどういう時代だったかを確認することから議論を建てなければならない。称制天智元年(662年)~天智6年(667年)。660年百済が新羅・唐連合軍に滅ぼされ、百済の残党は、倭に救援と王子豊璋の帰還を求める。661年斉明が援助に向う。同年、斉明死去。662年5月船師170艘を率いて豊璋等を百済国に送り、宣勅してその位を継がせた。663年白村江で大敗北。664年戦勝国唐から郭務悰来る。このように倭の存亡が問われ、筑紫は唐に占領された時代である。この国の存亡が問われている時代に、蝦夷征伐に行くだろうか。蝦夷の記事が称制天智紀には全く出てこないことは、称制天智紀の舞台が筑紫であることを多少は示唆することもありうるかもしれないが、証拠などではない。
 遷都、遷宮(天皇の正式宮殿を移転する)に関して、日本書紀に出てくる「遷」と「移」の字がどのように使われているか、すべての場合を調べている。「遷」が39回、「移」が7回出ていて、詳細な検討を加えた結果、「遷」表記は、正式宮殿が遷ったとしていいことを示している。このことから、斉明7年5月の日本書紀の記述により、「…畿内倭から筑紫に乗りこんだ斉明天皇が、飛鳥の宮殿から新築した朝倉橘広庭宮へと「遷宮」したということです。倭王権(大和朝廷)の正式宮殿が筑紫へと遷った、畿内倭から筑紫へと遷都したのです。」(下P.55)と著者は結論づけている。しかし、このことは多くの研究者が認めていないという。都が遷ったかどうかは、日本書紀の表記ルールからだけ決められるべきではなく、当時の軍事的、政治的、社会的、…様々な要因から結論を下すべきだ。(もちろん、表記ルールも大いに参考にすべきで、書紀ルールを詳細に調べることは意味があるが)もともと、都が筑紫にあるならば、対唐の軍事的な理由により海岸から離れた朝倉橘広庭宮へ遷都することは考えられよう。しかし、この時に飛鳥にある大和朝廷が九州の朝倉橘広庭宮に遷都することが考えられるだろうか。首都機能の移転が急に、このような遠方までできるだろうか。研究者の言うことの方が納得できる。また、斉明天皇が九州に遷都した理由が、百済救済のためではなく、筑紫征討のためだと著者は言う。もし、斉明が百済援助をしていないとすると、斉明(大和朝廷)は百済と長年に渡って友好支援関係を保ってきて、王子豊璋を人質として預かってきた王権とは違うことになる。それならば、九州王権が倭として国際的に認められてきている王権ということになり、著者が大和朝廷こそが正統性がある王権であると言っていることに矛盾しているのではないだろうか。

4章…『善隣国宝記』は語る

 663年白村江で倭が敗北後、日本書紀には唐の使節が天智3、4、8、10年と4回倭に来たことが記されている。その内、3、8年の記述はどこに来たかが明確にされていない。しかし、天智4年9月「…唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣す。」の日本書紀の記事の注で「…郭務悰…7月28日に、対馬に至り、9月20日に、筑紫に至る。22日に表函を進む。」と記されており、筑紫から2日間で都に至っていることから、倭の都は筑紫にあったと推測される。また、天智10年に来倭した郭務悰に対して、天武即位前記元年3月「…筑紫に遣わして、天皇の喪を郭務悰等に告げしむ。」とあり、唐の使節は筑紫に居たことが書かれており、やはり倭の都は筑紫にあったのではないかという推測ができる。
 これに対して、既存の日本史では、唐の使節は畿内倭京入りして、大和朝廷に面会したことになっている。
 著者は天智3年に唐使節の郭務悰が倭に来た時の、『善隣国宝記』と日本書紀の記事に詳細な検討を加え、『善隣国宝記』の記事の方に軍配を上げ、唐使節は大和朝廷の飛鳥には入っていないことを明確にしている。このことから、称制天智紀の天智の基盤は畿内にはなかった、という以外に理解のしようがないとする。更に、称制天智が畿内と無関係の筑紫王権に過ぎないことを明らかにしたとする。また、上に述べた日本書紀天智4年9月の記事で、不比等らが本文の中に「菟道で大がかりな閲兵を行なった」ことを入れることによって、唐使節が大和朝廷の飛鳥に入っているように歴史を創作しているのに対して、万葉史観グループが上に述べたような注をつけて記事の修正をしているとする。
 日本の歴史学の大御所は、述べている内容が日本書紀と他の資料で合致しない場合、他の資料に対しては厳しい態度で臨む、と著者は指摘する。『善隣国宝記』と日本書紀がそうであるし、他に、隋書倭国伝と日本書紀を例として揚げている。よく知られているように、隋書倭国伝は「…倭王あり、姓は阿毎、字は多利思比孤、…王の妻は鶏弥と号す。…」と倭の男王の名を述べ、推古天皇や聖徳太子が統べるとする日本書紀と合致しない。研究者はこの部分(推古天皇と聖徳太子)は無視しておきながら、隋書倭国伝の中で次に出てくる「内官に十二等ある。…」という部分は聖徳太子の冠位十二階だとしてしまい、外国文献を都合のいい資料としかみなさない、と指摘している。(下P.90)
 隋書倭国伝では、この本では触れられていない「…有阿蘇山。…」という記述があり、国の近くに阿蘇山があることも重要な情報であることを指摘しておきたい。また、多くの書物が隋書倭国伝と書いているが、正確には隋書俀国(たいこく)伝であることも重要なことである、と私達は考える。例えば、『天皇とワンワールド』(落合莞爾著、成甲書房)は著者の十数冊に及ぶシリーズの中の一冊であり、既存の日本史を批判し、学ぶべき点が多くあると考えられる本である。この本は、まず正確に俀国伝の文を「開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、…」と掲げた上で、「俀王」は「倭王」、「多利思北孤」は「多利思比孤」の誤字と見ます、とその本のP.343の注で述べている。このような本でも、倭国伝としているが、「倭国」と「俀国」の違いも大きな内容を含んでいると私達は考えている。
 日本最古の漢詩集といわれる「懐風藻」に、唐使劉徳高が天智称制4年(665年)に来て、大友皇子が唐使に応対したときの漢詩がある。天智や大友は筑紫にいたことから、唐使節は畿内倭京に入っていないとし、大友皇子が皇太子として応対していることからも、称制天智朝に大海人皇子はいず、天智の即位時点で大海人は皇太子になったとする。唐の使節が近畿大和朝廷を訪れていない事は示されている、と思われる。しかし、このことから天智が筑紫王権であったとしていることにはやはり疑問が残る。
 更に、「称制天智紀は全編、白村江の戦いと、その敗戦処理の記録だったのです。これまで見たように、称制天智朝は大海人皇子の畿内倭王権と、中大兄の筑紫王権が並立していました。…百済は盛んに倭王権(大和朝廷)へと救援をもとめていました。しかし、畿内倭王権の斉明朝はそれに応じませんでした。この方針がかわったのは、斉明7年の斉明天皇の死です。これをきっかけに、天智の筑紫王権が単独で、百済援助へと舵をきったのです。そして、白村江の戦いで、倭軍は唐・新羅連合軍に大敗を喫します。…百済救援で唐に大敗を喫したのは、筑紫王権です。畿内の倭王権は全く関与していません。飛鳥京は、敗戦とは無縁だったのです。畿内の倭王権が唐に気を使う必要などまったくなかったのです。そうはいっても、唐側からすれば、日本列島の権力の中心は倭の飛鳥京だとの認識だったはずです。」(下P.83.84)とするが、この記述は大いに疑問である。
 百済救援をする王権が入れ変わったとしているが、それは大事である。どのような対立が生じたのか。それはどのような歴史的事実から示されるのか。著者は第2章から繰り返し、斉明の筑紫遠征は百済救援ではなく、筑紫王権の征討だと述べている。斉明7年(661年)1月斉明は海路につく。戦争に行くわけだから、準備が必要である。前年の斉明6年(660年)12月諸々の武器を準備し、船を造らせている。この船は、瀬戸内海を渡り筑紫王権征討用の船か、または玄界灘の荒波を乗り越え対馬海峡を渡って百済を救援する船か。瀬戸内海仕様の船であるなら、最初から筑紫王権征討であり、斉明の死を契機に方針が変わったのではない。対馬海峡仕様の船なら、途中から引き返してしまっては唐・新羅との戦いにならないのではないか。
 古代における東アジア最大の戦争で、畿内の倭王権が日本列島の権力の中心であるなら、敗戦とは全く無縁なことがあるだろうか。この戦争の結果、百済、高句麗の朝鮮の二ヶ国が滅び、新羅が朝鮮半島を統一し、唐は完全に朝鮮半島と日本から撤退している。
 日本書紀斉明元年8月(655年)「…河辺臣麻呂等、大唐より還る。同年10月是の歳に、高麗・百済・新羅、並びに使を遣して進調る。」とあるように、以前から倭は遣唐使を続け、高麗・百済・新羅は倭に朝貢している。この間、百済の王子豊璋を人質として預かってきた。660年7月唐・新羅によって百済が滅ぼされ、10月百済の将軍鬼室福信が救援と王子豊璋の送還を要請する。661年1月斉明天皇は筑紫に向かい、7月斉明が崩御し、9月軍兵五千余人を率いて王子豊璋を護送し、663年船400艘が焼かれたとされる白村江の戦いで唐・新羅に敗れている。その後、占領軍の唐使郭務悰は、2回も2000人を超える人員を従えて倭に来ている。一連の対応は当時の日本の最も支配的な王権によって行なわれている。それが、筑紫王権か大和朝廷かは別にして、斉明の崩御を境に入れ替わることは考えられない。もし、天智の筑紫王権がこの一連の対応をしていたとすれば、筑紫王権が支配的な力を行使しており、大和朝廷は支配力を持たない単なる近畿の豪族に過ぎないことになる。
 しかし、よく知られているように皇室の菩提寺である京都の泉涌寺は天武天皇と血がつながる天皇はすべて排除し、天智天皇と光仁天皇以下を祀ってあるという。天智が大和朝廷以外の王権に属し、天武が大和朝廷に属するというなら、泉涌寺の事実と全く反対であり、このことなどからも、著者の議論には首を傾げざるを得ない。

5章…長屋王と万葉史観

 この章は、とても読みやすい。それは著者が歌の世界に造詣が深く、また続日本紀が記述する時代に詳しいからかな、と思った。
 天武10年(681年)3月、「帝紀と上古諸事」を作成するよう天武天皇が指示する。持統5年(691年)8月歴史ある十八氏族に対して、その祖たちの墓記を持統天皇が進上させている。和銅5年(712年)1月太安万侶によって、古事記が撰上される。養老4年(720年)5月「…一品舎人親王、勅を奉けたまはりて日本紀を修む。是に至りて功成りて奏上ぐ。紀30巻系図1巻なり。」と続日本紀にあるように、日本紀(日本書紀)も撰上される。
 最初、天武天皇の孫で、反藤原派の頭目である長屋王の置かれていた政治的環境について詳しく述べる。次に、持統天皇と手を組んだ藤原不比等、不比等の息がかかった舎人親王等によって歴史が捏造され、日本書紀が完成したことを示す。不比等らが創作した歴史ストーリーは次の内容であるという。「神武が筑紫から東征して倭を平定し、大和朝廷を開く。それ以来、一時的に宮殿が倭を離れることはあっても、神武の血を引く万世一系の大和朝廷が日本を治めてきたとする。天智の権力基盤は筑紫にあり、天智はこの系譜にないが、大和朝廷の皇子、天皇として正当な後継者に仕立て、天智や中臣鎌足の系図等を創作して、天智朝や藤原氏に都合のいいように歴史を書き換える。」(類 下P.157)
 それに対して、万葉集への書き込み、日本書紀の記事修正などによって、日本書紀の歴史捏造を告発する万葉史観のメンバーは長屋王を頭に、山上憶良を中心にし、佐為王、紀清人等であるとする。「万葉集はみずからの案内で、日本書紀が描く歴史の修正を迫ります。歌とは直接関係ないさまざまなサインをくりだして、読者を書紀の記事へと誘導します。その記事は決まってどこか不自然です。ふつうならありえない変則表記が出てきます。この変則表記、異例な記述が書紀の歴史観を軌道修正します。これが万葉史観です。」(下P.127)とする。
 「持統は天武の血だけではなく、自分の血を引く子孫に皇統を継がせたいという強烈な意思がありました。」(下P.128)とあるが、この時代の女性の思考形式などから考えても、個人の血を継がせるのではなく、天武朝ではなくて天智朝に皇統を継がせたい、と理解する方が妥当だと思われる。
 日本紀(日本書紀)が撰上された直後の養老4年(720年)8月、藤原不比等が亡くなる。このときの天皇は反藤原派の元正天皇で、反藤原派の頭目の長屋王が不比等の後の右大臣になる。不比等が亡くなった後の養老5年(721年)年1月、首皇子(後の聖武天皇)の教育係の16人のメンバーが選出される。この人選は明確な反藤原シフトであるとして、16人一人ひとりを丹念に調べ、このメンバーの中から上に述べた万葉史観のメンバーが形成されたとする。日本書紀と万葉集を比較しながら、書紀の書き換え情報を「類聚歌林」に移しておいて、後で万葉集に組み込む。左注、例外的な表記、「類聚歌林」の引用からの解説などが示す万葉史観によって、天智は皇子ではなく、筑紫を基盤とした王権であることをあばこうとする。
 この後、長屋王は藤原氏の陰謀により、天平元年(729年)長屋王の変で自殺に追い込まれる。「最終的に万葉集を編集したのは大伴家持と考えられています。そのあとも細かな手直しはあったでしょうが、ふつうの歌集の体裁をした「先行万葉集」も万葉史観を組みこんだ現存の万葉集の編者も、ともに家持としていいようです。山上憶良が「類聚歌林」に残したと考えられる日本書紀の書きかえ情報をもとに家持が、万葉集へと万葉史観を移植したとして大きくはずれることはなさそうです。」(下P.182)とする。天平宝字1年(757年)最後の反藤原派の橘諸兄が亡くなり、次第に藤原氏の朝廷支配が決定的となり、家持が亡くなる延暦4年(785年)までには万葉集は完成したとしている。
 この章の最後に、旧唐書倭国伝・日本国伝について触れる。旧唐書は、この時期倭には二つの国が並存し、倭が本流、日本は傍流であり、傍流である日本が倭を併合したと述べている。万葉史観は「天智が率いる小さな筑紫王権が大いなる倭王権を併合した…。」(下P.188)ことを示しているから、旧唐書は全く万葉史観と同じことを述べているとしている。
 しかし、これには疑問が残る。旧唐書倭国伝・日本国伝の記述では、海や山などの国の地理を説明する箇所がある。この記述から考えて、倭は九州であり、日本は大和である。旧唐書は、傍流である日本(大和)が本流である倭(九州)を併合したとする。本流と傍流があり、傍流が本流を併合したことは同じでも、本流と傍流の関係が万葉史観の主張と逆ではないか。この点でも注意深い検討が必要と思われる。

終章…権威を疑う

 古代史の通説、定説と言われるものが如何に根拠なくうち立てられるかという事を実例で示している。万葉集には多くの人名、地名が出てくるが、分からないものもある。特に、正体のハッキリしない地名は、天智天皇、鏡王女に絡んで出てくるとする。具体的には、万葉集巻2の91番歌の中の「大島」がどこに在るかの説を辿っていく。岸本由豆流、土屋文明、沢瀉久孝、伊藤博、多田一臣の説を詳細に検討し、如何に根拠の薄いものが定説として確立していってしまうかを具体的に示し、既存の日本古代史の通説に寄りかかる立場に警告を発している。巻末に、歌だけでなく、万葉集研究者年表が掲げられ、本文の記述に出てくる文献、研究者はすべて読者が確認できるように配慮がされている。
 また、最後に鏡王女と額田王は姉妹か、同一人物か、それとも違うのかなどの諸説を取上げている。

3. 読後の疑問

 以上、書紀の記述ルール、万葉集の記述ルールなどから、日本書紀の記述には矛盾があることが詳細に示されている。確かに日本書紀では、斉明や中大兄(天智天皇)の記述について疑問な点が多い。持統天皇と手を組んだ藤原不比等らが日本書紀を改ざんして、歴史の捏造を図り、その改ざんを万葉集が告発しているというのが、この本の主張である。(1)中大兄(天智天皇)は大和朝廷の系譜の皇子や天皇ではない。(2)中大兄(天智天皇)は筑紫王権に属し、九州から東征した王である。このことを、万葉集は日本書紀の記事と関連して訴えており、これを万葉史観と呼ぶ、と著者は言う。各章の要旨と感想のところで述べたように、(1)に関してはかなりの説得力があるように思うが、(2)に関しては、疑問な点が多い。とは言え、既存の古代史には確かに大きな矛盾があり、やはり日本古代史は再検討されなければならず、本の帯に書かれているように「歴史が変わる!教科書が変わる!」必要がある。
 この本を読み終わった段階で、また、正しく歴史を書き直そうと考えるとき、私達はもっと大きな問の前に立っていることを意識せずにはいられない。それを大きく(A)、(B)、(C)、(D)と整理してみよう。

(A)日本紀と日本書紀は同じか。
5章の要旨と感想のところで見たように、続日本紀の養老4年(720年)5月の記事に「…一品舎人親王、勅を奉けたまはりて日本紀を修む。是に至りて功成りて奏上ぐ。紀30巻系図1巻なり。」とある。これが日本書紀撰上の記事とされる。この日本紀30巻、系図1は、日本書紀と同じとしていいのだろうか。万葉集には、左注で「…日本書紀に曰く、…」、「紀に曰く…」、「日本紀に曰く、…」、「記に曰く…」などの表現がある。「日本紀」が9回、「紀」が4回、「日本書紀」が2回、「記」が1回出てくる。「紀」や「記」は略記としても、「日本書紀」と「日本紀」は明らかに違う表現である。持統天皇までの歴史が書かれているのが「日本書紀」で、持統天皇から先の文武天皇から桓武天皇までの歴史が書かれているのが、「続日本紀」である。「続日本紀」との関係から、書の題名としては、「日本紀」の方がふさわしい。「日本書紀」と「日本紀」は違う書である可能性は無いのだろうか。また、系図1はどうなってしまったのだろうか。天皇の指示で、国家が何十年もかけて作成されたものを紛失するという事は、戦争などで王権が変わるなど以外には考えられない。(都合が悪くなって、隠すということはあり得るが)本書が指摘するように、日本書紀は不比等らによって、また長屋王や山上憶良らによって改ざんされている。改ざん前のものが「日本紀」、改ざん後のものが「日本書紀」であるなどの可能性はないのか。

(B)大和朝廷と九州王権(筑紫王権)の関係はどのようなものだったか。
 日本書紀では、称制天智紀と天智紀に対唐・新羅の戦争や敗戦処理についての記事がある。著者は、白村江の戦いで敗れ、唐との敗戦処理を行なった王権が天智の筑紫王権であったとする。そうすると、日本で最も支配力の大きい王権は筑紫王権ということにならないのか。その場合、大和朝廷はそれまで単なる大和地方の豪族に過ぎないということにならないか。また、九州王権(筑紫王権)はどこで生まれ、どのように成立し、どのように発展してきた王権なのか。

(C)天智、天武、斉明は実際にはどのような関係にあったか。
 本書では、中大兄は筑紫王権に属し、大海人は斉明天皇と行動を共にしているとするが、どうして大海人は乙巳の変のとき、全く姿を現さなかったのだろうか。大海人が古人大兄であることは、そのとき古人大兄が取った行動からして、考えにくい。日本書紀を読む限りでは、天武はすべてに渡って新たな時代を作り出すような事業を起こしている。もし、大和朝廷内部で斉明と行動を共にしているのなら、皇太子のときにも多くの革新的なことをやるはずだが、そのようには見えない。このことから、むしろ、大海人が本当に斉明(皇極)の子であるかの方が疑わしいのではないか。そう考えていくと、やはり天智天皇と天武天皇は大和朝廷内の兄弟ではなく、違う王権の王と考えた方がいいのではないか。対立する王権の王同士だから、天智の娘を4人も天武の妃にすることができたのではないか。

(D)白村江の戦いを担ったのは、どの王権か。
 唐は663年白村江の戦いに勝利し、やがて筑紫に都督府を置き占領した。その後、668年高句麗を滅ぼしたが、その後新羅が唐に勝って、676年新羅が朝鮮を統一し、唐は朝鮮や日本から引き揚げている。唐引き揚げ後の日本を治め、国家形成をしたのは天武天皇であることは確かである。日本書紀では百済を助けて、白村江の戦いに臨んだのは天智天皇であったと述べている。実際のところ、白村江の戦いに臨んだ王権は、大和朝廷であったのか、九州王権(筑紫王権)であったのか、天智天皇であったのか、天武天皇であったのか。
 本書は、主に日本書紀と万葉集の記述から結論を導き出す方法をとっている。その結果、各章の要旨と感想のところで示したように、(2)では疑問が残る結論となっている。東アジア全体の動向を踏まえて、その時代の軍事的、政治的、社会的、経済的要因等、様々な要因から総合的に歴史を構成すべきである。現在、歴史の専門家だけでなく、多くの分野の方々が日本の歴史に言及し、多くの説を述べられている。総合的な学問である歴史学に、多様な分野の知見が活用されることは大変よいことであろう。その場合、自分の説と結論が違うからといって直ぐに排斥するのではなく、丹念に多くの説の趣旨を理解し、多くの知見を総合することが求められている。古文献の解釈を専らにするのではなく、様々な知見を集めて、ダイナミックな日本の歴史を再構成することが求められているし、そうすることがようやく可能な時代になっているのではないだろうか。
 その意味でも、また、上に揚げた(A)~(D)までの問に対する解答を求めるためにも、「捏造された天皇・天智」を読まれた方々に、是非、佃收氏の著作を見ていただきたい、と私達は考えている。

4. 佃收説と著作等

 佃氏は、紀元前12世紀頃中国の長江流域に居たとされる「倭」と呼ばれた人々がどのように日本列島に渡来して来たか、から始めて、天武天皇、持統天皇の時代まで(日本書紀に記されている神代を除く時代)について、歴史の骨格を述べている。つねに、合理的根拠を示しながら、時と場所を特定しながら論を進めている。私達は、古代から7世紀までの日本の古代史を考える上で、大変参考になり、古代史の矛盾を解決するうえで、幾度となく目が見開かれる思いをしてきた。
 佃氏は、天智王権と天武王権は共に九州で生まれた王権であるとする。白村江の戦いを担ったのは天武王権であり、日本書紀で描かれている斉明天皇の業績は、主に天武天皇の父の業績を書き直しているとする。天武天皇の指示で作られたのが「日本紀」であり、それを持統天皇以下の天智朝の天皇たちの時代に書き換えられたのが「日本書紀」であるという。
天智朝と天武朝に関しては、主に「古代史の復元」シリーズ⑦『天智天皇と天武天皇』に書かれている。この本は、第1部天武王権で、天武王権が詳しく述べられる。これは、問(B)に対する解答ともなるのではないか。第2部「白村江の戦い」と天武王権で、天武がどのように唐・新羅に対応したかが述べられる。これは問(D)への解答である。第3部「壬申の乱」の真相で、天智王権と天武王権の関係を明確にしている。これは、問(C)に対応している。第4部高市天皇と長屋親王で、高市は高市天皇であったことを示し、第5部天智天皇と『日本書紀』で、どのように日本書紀が書き直されたかを示している。
 第4部では、九州年号や長屋王の遺跡の分析などから高市は天皇であったことを導き、その結果として、長屋王ではなく長屋親王であることを示している。長屋親王の木簡が発見されたことは、このことを裏付けている。また、5章高市天皇と柿本人麿では、柿本人麿について述べ、人麿と天皇の関係、万葉集の歌などについても考察を加えている。
第5部では日本書紀や続日本紀の成立過程を考察し、森博達氏の『日本書紀の謎を解く』中公新書)(を参考にしながら、日本紀の復元につとめている。これは、問(A)に対応している。
尚、「万葉集があばく捏造された天皇・天智」で言及されている旧唐書倭人伝については、(「古代史の復元」シリーズ⑤『倭の五王と磐井の乱』第5部の第3章日本国と任那日本府、で解説されている。また、乙巳の変については、「古代史の復元」シリーズ⑥『物部氏と蘇我氏と上宮王家』の第5部の第4章蘇我家と上宮王家の争い、で考察されている。
『万葉集があばく捏造された天皇・天智』に関連して、『古代史の復元』シリーズ⑤、⑥、⑦に触れたが、このシリーズは①~⑧まである。また、『新「日本の古代史」』(上)、(中)もすでに出版されている。多くの方々に、これらの書物に直接接してもらうために、佃氏の許可を得て、全文がこのホームページで読むことが出来る。是非、必要なpdfファイルをダウンロードして、印刷して読んで、参考にしていただきたいと考えている。
佃氏の著作だけでなく、先ほど述べた『日本書紀の謎を解く』(森博達著、中公新書)『日本書紀成立の真実』(森博達著、中央公論新社)は、日本書紀に関してこんなことまで分かるのか、といった感激を味わうことができる素晴らしい本であり、大変参考になる。『万葉集があばく捏造された天皇・天智』を読まれた方、日本書紀に興味のある方は、是非読んでいただきたいと願っている。
古代史は分からないことが本当に沢山ある。私達は、渡辺氏の『万葉集があばく捏造された天皇・天智』から多くのことを学ぶことができた。佃收氏の著作やここで紹介した著作などにより、皆様の古代史についての理解が一歩でも前に進むことができたら、大変嬉しく思います。

(作成委員会代表 本多)

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