論 文 集 

『新「日本の古代史」(上)』、『新「日本の古代史」(中)』、『新「日本の古代史」(下)』に収録されている論文は、本の項目に(上)、(中)、(下)を示し、章の項目にはHPに記載されている各本の章を示しました。
論文番号が黄色で色付けされている論文は、まだ本の形では出版されていません。
読まれる際の参考のため、論文番号の横に大まかな時代(世紀)とテーマ、下に論文の概要を示しました。クリックすると、各論文のpdfファイルが示され、読むことができます。

区分A: 倭人の始まり ~ 邪馬壹国、神武東征 (前12C~3C)

論文番号 世紀(C) テーマ
33 前12~3 渡来弥生人と「天孫降臨」 (上) 1
70(2) 前12~前2 -考古学者へ-
「天孫降臨」と「吉武高木遺跡」の年代
(下) <12>
36 前5~3初 中国東北地方の郡の変遷 (上) 1
33 前12~3 渡来弥生人と「天孫降臨」 (上) 1
61 1~3 「朝鮮半島の倭」から「北部九州の倭」へ
-倭国王帥升・「倭国大乱」は朝鮮半島-
(上) 2
45 3(一部7) 伊都国と邪馬壹国の戦い
-邪馬壹国と狗奴国の所在地-
(上) 2
46 3 伊都国と「神武東征」 (上) 3
47 2、3 長髄彦と饒速日命と神武天皇 (上) 3
59 3 「邪馬壹国=纏向遺跡」説の考古学者に問う (上) 2関係
60 3 私案「卑弥呼の墓」 (上) 2関係
39 2、3 ホケノ山古墳とニギハヤヒ(饒速日)命 (上) 2関係
56 前12~4 「日本の歴史」と渡来人
-DNAが証明する天氏と卑弥氏の渡来-
(上) 1,4,5関係
前12~3 初期「北部九州の古代史」

『新「日本の古代史」(上)』は、倭人の渡来、女王国(邪馬壹国)、神武東征などについての論文が収録されている。歴史的舞台の中心は、北部九州である。この論考は、どの様な集団が渡来して北部九州に支配権を確立し、どの様に他の集団に奪われていくのかという、支配する集団の変化という視点から、上記論文の内容を簡潔に整理したものである。倭人は紀元前12世紀頃中国呉地方に居た。長い年月を経て、紀元前140~120年頃、倭人の中の「天氏」が北部九州に天孫降臨する。吉武高木遺跡などがその時の「天氏」の遺跡であり、須玖岡本遺跡(弥生時代中期)はその都である。一方、倭人の「卑弥氏」は前50年頃朝鮮半島南部に「倭国」を建設する。「卑弥氏」である「倭奴国」が57年に後漢王朝に朝貢して金印を賜ることなどから分かるように、博多湾沿岸の支配権は「天氏」から「卑弥氏」に移る。「天氏」は、須玖岡本遺跡(弥生時代後期)を奪われ、福岡県前原市に移り、「伊都国」を建国する。朝鮮半島の「倭国」に居た「卑弥氏」の人々は、220年~230年頃公孫氏の侵略を受け、北部九州に逃げて来て国(邪馬壹国)を建て、景初2年(238年)には魏に朝貢して卑弥呼が「倭王」となる。そして、女王国は「倭奴国」を九州島内部に押しやる。(『魏志』倭人伝では、「倭奴国」は「狗奴国」と表記されている)ところが、247年頃、卑弥呼は「狗奴国」との戦いで戦死する。一方、「倭国」と「伊都国」の争いでは、「天氏」である「伊都国」は再び敗れ、土地を捨てて、東に向かう。これが、神武東征(250~260年頃)である。266年、「倭国」の壹與は晋に朝貢する。その後、「倭国」は同じ「卑弥氏」である「狗奴国」に敗れ、歴史上の舞台から消える。「狗奴国」は『日本書紀』が述べる「熊襲」であり、この後、神功皇后が登場するまで、北部九州を支配する。

3~4 三角縁神獣鏡の成立と大和地方の前期古墳の築造年代      

小野山節氏による論文「三角縁神獣鏡の鋳造法と同笵鏡」と、藤本昇氏の著書『卑弥呼の鏡』に示された研究成果をもとに、三角縁神獣鏡のできてきた過程を解明し、天神山古墳、黒塚古墳などの築造年代を特定している。
 小野山氏による論文は、鏡の背面の4つの部分を合わせて、周縁部に三角縁を巡らせ鋳型を平に保持して鋳造する方法(鏡背四分鋳型)を発見したこと、この方法は、大型鏡の量産を目的として作られたことなどを示している。
 藤本氏の著書は、青銅に含まれる鉛の4種類の同位体の比を4軸レーダーチャートに図示する方法を開発して、銅鐸や各古墳から出土した青銅鏡の青銅の産地を明確に特定することができることを科学的に示している。三角縁神獣鏡は従来、舶載鏡(中国産)と紡製鏡(日本産)に分けられ、魏から卑弥呼に贈られた銅鏡百枚は舶載の三角縁神獣鏡であるとういう説が、「邪馬壹(台)国 近畿説」の論拠になってきた。しかし、三角縁神獣鏡はすべて国産で、舶載鏡、紡製鏡の区別は全くないことが明確に示されている。
 大和地方の天神山古墳からは大型の内行花文鏡などが23面も出土しているが、三角縁神獣鏡は1枚もなく、九州の平原遺跡と共通の鏡が出ている。また、黒塚古墳からは「笠松文様」がある四神四獣鏡を主体とした33面の三角縁神獣鏡が出土している。このようなことから、天神山古墳の築造は280~285年頃であり、黒塚古墳の築造は290~300年頃と推定する。また、三角縁神獣鏡が日本で誕生したのは、卑弥氏の卑弥呼ではなく、天氏の神武天皇が大型鏡を大量に発注したからである、とする説は大変興味深い。
 一般に流布されている姿とは全く異なる、三角縁神獣鏡の真の姿が明確な輪郭で示されている。また、この論文と同時に、簡単に手に入るので、藤本昇氏の『卑弥呼の鏡』にも是非目を通してもらいたいと願うものである。


区分B: 崇神天皇、神功皇后 ~ 倭の五王 (3C~6C前半)

論文番号 世紀(C) テーマ
48 3、4 崇神天皇と夫餘 (上) 4
49 4(一部6) 貴国と宿穪-「貴国」を認めない「日本の歴史」- (上) 5
55 4、5 貴国の歴史-鵲(カササギ)が「日本の歴史」を変える- (上) 5
54 5、6前半 「倭の五王=筑紫の君」 (中) 1
62 5、6前半 「九州の王権」とその年号(その一)
「倭王武」と年号-「磐井の乱」は「辛亥年(531年)」-
(中) 1
53 4末~6前半 朝鮮半島の前方後円墳と「磐井の乱」 (中) 2関連
4末~6前半 倭の五王

 中国『宋書』などは、倭の五王讃・珍・済・興・武が日本や朝鮮半島を支配していたと明確に述べているが、『古事記』や『日本書紀』には記載がない。「日本の歴史学」では、讃・珍・済・興について諸説があるが、倭王武=雄略天皇だけは間違いがないとしている。しかし、倭王武は中国王朝に478年と502年に朝貢しているが、『古事記』に記された雄略天皇の崩年干支は「己巳」(489年)であり、『日本書紀』雄略紀は457年~479年であって、全くつじつまが合わない。
 状況を打開するためか、若手の研究者河内春人氏は『倭の五王』(中公新書)を出版して、「倭の五王は、記・紀に拘泥せずにひとまずそれを切り離して五世紀の歴史を組み立ててみる作業が必要であり、本書はそのための露払いである。」とし、「本書によって、日本の立場だけで日本史を考える危うさについて気付くきっかけになればと思う。」と述べ、朝鮮半島や中国の当時の政治状況を詳しく論じた。
 このような状態の中で、佃氏は「埼玉県立歴史と民俗の博物館 友の会」傘下で開かれている古代史講演会の第7回で、「今まで倭の五王についてキチンと説明した人がいない」と述べ、詳細な資料をもとに意欲的な講演を実施した。そのときの資料がこの論考である。
 まず、倭の五王讃・珍・済・興・武の在位年を確定する作業から開始する。続いて、その在位年内の『記・紀』の記述を掘り下げて倭の五王の事績を示し、古墳や石棺の形態などから埋葬されている古墳を特定し、五代に渡って支配領域を拡大していく様を著わしている。
 熊本県玉名郡の江田船山古墳の鉄刀と埼玉古墳群の鉄剣にともに刻まれた文字「ワカタケル大王」が解読されている。「ワカタケル大王」=倭王武であり、このことによって、九州に本拠地をもつ「倭王権」」が関東まで進出し、日本や朝鮮半島まで支配を拡大していった様子が考察できる。
 HPの中の青色の佃收古代史講演会のボタンをクリックすると第7回古代史講演会レポートを見ることができます。そちらの方も参照してください。


区分C: 倭の五王の後 ~ 俀国(阿毎王権)、上宮王権など (6C~7C前半)

論文番号 世紀(C) テーマ
63 5、6前半
(一部3、4)
「九州の王権」とその年号(その二)
「物部麁鹿火王権」と本拠地-「物部氏」の研究-
(中) 2
64 6、7初 「九州の王権」とその年号(その三)
「俀国(阿毎王権)」とその歴史
-『隋書』の「俀国」は九州の物部氏-
(中) 3
65(1) 6後半、7前半 「九州の王権」とその年号(その四)
「上宮王権」と「豊王権」-上宮法皇と聖徳太子-
(下) <5>
5末、6中頃 都塚古墳と高麗人小身狭屯倉-「亀石」は金蛙-          

奈良県明日香村の都塚古墳、真弓鑵子塚古墳の被葬者を推定している。明日香村の「古代の道」には、「猿石」や「亀石」、その先には石舞台古墳などがあり、観光地としても大変有名である。佃氏は『三国史記』、『桓檀古記』、『日本書紀』、『続日本紀』」を読み解いて、この「亀石」は「亀」ではなく、「蛙石」だとする。定説とは全く異なる解釈を説得的に展開しており、この地を訪れる際にも大変参考になる論考である。

5、6前半 筑紫舞の「肥後の翁」と江田船山古墳               

熊本県玉名郡の江田船山古墳は、明治6年地元の人物が「夢のお告げ」を受けて古墳を掘り、以後家形石棺や銀象嵌銘太刀など多くの副葬品が発見された。この太刀には一部は読み取れないが75字の銘文が記されている。副葬品は、1965年に国宝に指定され、東京国立博物館に所蔵されている。一方、1978年、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金象嵌鉄剣の115字の銘文が読み込まれ、「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」という文字が発見された。二つの刀から共通の「ワカタケル大王」が確認でき、九州と関東に支配権を持つ大王が居たことが判明した。既存の古代史では、この大王は雄略天皇としているが、佃氏は倭王武であり、雄略天皇ではないとする。江田船山古墳は2回追葬がされており、被葬者は3人である。『宋書』倭人伝は、倭王の他に13人の将軍に触れ、最初の将軍「倭隋」だけ名前が記されている。この「倭隋」が江田船山古墳の最初の被葬者であるとする。「倭隋」は倭の五王の下で活躍して支配領域を拡大し、「王位」を継承していく。佃氏はこれを「江田王権」と名付けた。古代史の復元シリーズ⑤『倭の五王と磐井の乱』に書かれた各古墳内の石棺形状、分布を整理し、この時代の権力の在り様を分析している。「筑紫舞」という古代の舞に、「肥後の翁」が何人舞であっても、出てくる。この「肥後の翁」は、「都の翁」(=倭の五王)を支えた「江田王権」であるとする。

6後半、7前半 -考古学者・歴史学者へ-
「日本史」を狂わしている「飛鳥寺」   
         

現在の日本史の定説では、飛鳥寺と法興寺と元興寺は同じ寺であるとし、587年頃に大和の飛鳥に創建されたとしている。また、法隆寺は聖徳太子を祀って建てられたとされている。しかし、金堂の釈迦三尊像の後背銘に明確に記されているように、上宮法皇の平癒を願って法隆寺は建立されており、聖徳太子は上宮法皇の皇子である。法興寺は、この上宮法皇によって596年に肥前南部に完成する。次に、元興寺は、609年に阿毎王権(俀国)によって筑前に建てられ、672年~677年の間に天武天皇によって大和の飛鳥に移築されて、飛鳥寺となることが論証される。従って、672年以前に大和に飛鳥寺は存在していない。移築された飛鳥寺の発掘調査の結果、特に基壇の様式や瓦の型式を細かく分析し、移築された際に、「1塔1金堂」の四天王寺式伽藍配置から「1塔3金堂」形式に変ったことが突きとめられる。飛鳥寺周辺の発掘調査は数十年に渡って続けられているが、7世紀中庸以前のものはまだ何も発掘されていないことが、この移築を裏付けている。また誤まった定説を根拠にするために、「高蔵43型式」の須恵器の年代が実際より80~90年も早くなり、須恵器編年は大きく間違っている、と指摘する。論拠を明確に示した論考である。

6、7前半 藤ノ木古墳の被葬者-阿毎王権と藤ノ木古墳の馬具-      

定説では、法隆寺の数百メートル西に位置する藤ノ木古墳の年代は、TK43式須恵器の年代から6世紀後半とされている。一方、窯業史を専門とする畑中英二氏はTK43式須恵器は7世紀第一四半期頃が遡りうる上限であると、異なる見解を示している。藤ノ木古墳から出土した馬具の鞍金具の毛彫り技術は非常に高い水準にあり、法隆寺玉虫厨子の透彫り金具とともに、百済金銅大香炉などの毛彫り技術がそのまま移転されていることが見えると、金工技術の専門家鈴木勉氏が述べている。また、考古学者森浩一氏は石棺の中に埋葬されている二人は母と子との可能性が考えられるとし、冠や大帯が折り曲げられており、子の方の頭蓋骨は粉々に壊れているなど、異常な埋葬のされ方であると述べている。これらのことから、埋葬されている二人は、阿毎王権(俀国)十六世の妻と子ではないかと、佃氏は推論する。この時代は、阿毎王権(俀国)と上宮王権、天武王権がしのぎを削り対立する時代である。法隆寺の再建問題とともに、大変興味深い。二人を納めた石棺や出土品の精密なレプリカを、藤ノ木古墳の直ぐ近くにある斑鳩文化財センターで見ることができる。

7前半 斑鳩京の京域                   

73(2)号論文[藤ノ木古墳の被葬者-阿毎王権と藤ノ木古墳の馬具-]、74(1)号論文[考古学者・歴史学者へ 「日本史」を狂わせている「法隆寺」-法隆寺の創建・移築から現在まで-]に続く論考である。日本書紀にあるように、上宮太子(聖徳太子)は601年に斑鳩宮を作り始め、605年に斑鳩宮に移り、613年には、難波から斑鳩宮に至る大道を造る。斑鳩宮は上宮王権の都であり、京域が形成されているのではないかとする。670年に焼失したと言われる斑鳩寺(若草伽藍)の方位は北で20度西に振れており、この方位に沿った京域である。そのように考えると、藤ノ木古墳はちょうどこの京域の外部にあり(京域と接するような位置)、阿毎王権の墓であるとする佃説を裏付けている。

6~7前半 船原古墳の被葬者                 

 73(1)号「藤ノ木古墳の被葬者-阿毎王権と藤ノ木古墳の馬具-」に続く論考である。藤ノ木古墳は非常に高い水準にある鞍金具の出土と異常な埋葬のされ方が特徴であった。船原古墳(福岡県古賀市)からは、国内に類例のない金銅製歩揺付飾金具を始めとして、国内トップクラスの馬具、武器・武具が出土した。さらに、この埋葬物が古墳の中にではなく周辺の土坑に埋納されていたこと、この地域で唯一の前方後円墳であることなどが特徴である。6世紀末から7世紀初頭に造営された古墳であるという。被葬者はいつ頃の誰なんか、興味がそそられる。
 安羅に置かれていた任那日本府は100年間任那を支配してきたが、562年新羅が任那を滅ぼす。このとき朝鮮半島から日本に逃げてきた任那の王が被葬者ではないか、とする。豪華な馬具などの様式が新羅系列のものであること、この地域に突如として現れたこと、船原古墳の中には王冠や権威を示すものを入れるので一杯であり、馬具や武具などは古墳の裾の土坑に入れたのではないかと考えられることなどを理由とする。日本書紀敏達天皇6年5月の記事の「大別王」がこの王ではないか、と理由を述べて推定している。
 『豪華な馬具と朝鮮半島との交流 船原古墳』(新泉社)は発掘資料の見事な解説をしているが、ヤマト朝廷を前提にする古代史であるためか、この古墳の特徴の謎に迫れていない。


区分D: 天武王権以降 (7C前半~8C)

論文番号 世紀(C) テーマ
66(1) 6後半、7 「九州の王権」とその年号(その五)
「天武王権」と「日本の歴史」(一)
-「天武天皇の父」と天武天皇-
(下) <6>
67(2) 7後半、8末 「九州の王権」とその年号(その六)
「天武王権」と「日本の歴史」(二)
-高市天皇と長屋親王-
(下) <7>
58 7後半 「白村江の敗戦」後の唐・新羅と日本 (下) <3>
50 7後半 「壬申の乱」の真相 (下) <1>
57 7 捏造された「持統」と「草壁」 (下) <2>
68 6末~8 『日本書紀』は『日本紀』の改竄
-森博達氏の「α群」「β群」による検証-
(下) <8>
69(1) 7末、8初 『古事記』成立の謎を解く (下) <9>
6末~8初 考古学者・歴史学者へ
「日本史」を狂わせている「法隆寺」
-法隆寺の創建・移築から現在まで-
         

法隆寺は現存する世界最古の木造建築で、金堂、五重塔だけでなく、多くの仏像が私達を魅了する。同時に、法隆寺には謎が多い。1939年若草伽藍の発掘調査が行なわれ、670年に斑鳩寺(若草伽藍)は全焼し、法隆寺はその後再建された寺である、というのが現在の定説となっている。ところが、五重塔の心柱の檜は、焼失した年のはるか80年程前の594年に伐採されたことが判明した。止利仏師が造った釈迦三尊像を含む多くの仏像にも、火災にあった形跡はない。一方、夢殿の本尊とされる救世観音像は、明治17年(1884年)フェノロサと岡倉天心が調査の際に、僧達の反対を押し切って蔵から取り出して見つかった。また、平成10年百済観音堂が完成し、2mを越す細身の見事な百済観音像がようやく安置されたが、この仏像は江戸時代に初めて見つかっており、どの様な経緯で法隆寺にあるのかは不明であるという。また、この像の頭に付けられている金銅製宝冠は、明治時代に土蔵から発見されたが、この像のものかは現在でもまだハッキリしていないとのことである。聖徳太子の父である上宮法皇は、現在の古代史の定説からは消されている。佃氏は上宮法皇と上宮王権を明確に記述し、そのことから、法隆寺についての謎を見事に解いている。尚、『新「日本古代史」(下)』<5>の論文65(1)号と関連が深く、この2章上宮王権の初めに釈迦三尊像と救世観音像についての考察がある。また、古代史の復元シリーズ⑥『物部氏と蘇我氏と上宮王家』第6部に法隆寺についての詳しい叙述がある。

7後半、8 藤原京と薬師寺の謎を解く              

薬師寺は、天武天皇が持統(皇后)の病気平癒を祈念して建てられたとされている。東塔は「凍れる音楽」と評され、佐佐木信綱の有名な和歌が知られている。一方、薬師寺には謎が多く、今でも論争が続いている。本薬師寺(藤原京)は、いつ頃完成したのか?新建か、移建か?現薬師寺(平城京)は、新建か、移建か?金堂と大講堂に同じような薬師三尊像が別々にあるが、それぞれどの時代に造られたものか?なぜ、薬師三尊像が二つもあるのか?…佃氏は『吉山旧記』、『和州旧跡幽考』、『薬師寺の向こう側』(室伏志畔著)に示された事柄を吟味しながら総合し、これらの謎を解いている。尚、天武天皇の皇后は683年まで「額田(姫)王」であり、中宮の持統はこの時期まだ皇后になっていない。天武天皇が病気平癒を願ったのは持統ではなく、「額田(姫)王」であったことも触れられている。

7 二つの「大化」年号                

『日本書紀』では、孝徳天皇即位前紀で「天豊財重日足姫天皇四年を改めて、大化元年とす」と記され、年号「大化」が初めて突然に現れる。「大化」以前の年号が何であったか、どうして年号が決められるようになったかは、何も書かれていない。続いて「白雉」、「白鳳」、「朱鳥」の年号が現われるが、これらは必ずしも繋がっていない。ようやく「大宝」からは『続日本紀』に示されているように、連続した年号が続いている。一方、『渤海国記』などには、孝徳天皇とは異なる時代の持統天皇の「大化」年号が書かれている。同じ年号が、異なる時代に2回もなぜ使われたのだろうか?この時代は、上宮王権、阿毎王権(俀国)、豊王権、天武王権がしのぎを削っていた時代であり、各王権はそれぞれ「九州年号」と呼ばれる年号を持っていた。この「九州年号」を読み解くことから、佃氏はこの時代の王権を解明し、同じ年号が二つの時代に現われた理由も示している。HPでは、『新「日本の古代史」(中)』の下のブログを見るというボタンをクリックすると、HP作成委員会が「九州年号」についてまとめた論考を見ることができるので、参考にしてほしい。

7~9初 『万葉集』の成立と改竄          

渡辺康則氏は『万葉集があばく捏造された天皇・天智』で、『万葉集』は、天智が天皇ではないことを告発している歌集である、と述べている。『万葉集』の解釈は分かり難いところが多い。7世紀の歴史の通説では、天皇は、斉明→天智→天武→持統の順となっているが、実際には、天武天皇の父→天武→高市天皇の順で、この時期、天智王権は支配権を持っていなかった。天武天皇の下で編纂された『日本紀』はその後の天智王権によって『日本書紀』に改竄されている。このように、実際とは異なる歴史を前提として『万葉集』が解釈されているため、『万葉集』は分かり難いはずである。また、『万葉集』も天智王権の支配とするために改竄が行なわれている。天武は天智の弟ではなく、有名な「額田王」は天武天皇の皇后であり、歌の解釈を変更する必要がある。薬師寺も、天武天皇が持統(天皇)のためにではなく、皇后「額田王」の病気平癒を願って建てたとする。抜本的に『万葉集』の解釈の変更をしなければならないとするこの論考は、それぞれの歴史的事象の年を定めながら展開されるので、筋が通っている。歴史的な考察の結果、『古今和歌集』の「仮名序」にあるように、『万葉集』は平成天皇の勅撰により成立したとする。尚、『万葉集があばく捏造された天皇・天智』の感想(HP作成委員会による)が、HPの「他の本の感想と佃收説」の項目のところにあるので、興味のある方は参照してほしい。

7後半、8初 持統天皇と額田姫王の墓          

66(1)、67(2)号などで、7~8世紀の政治的な状況が述べられ、75(1)号では薬師寺、72号では『万葉集』について掘り下げた論が展開されている。日本古代史の定説では、天武天皇は天智天皇の同父母の弟であることになっており、天智天皇の4人の娘はすべて天武天皇の妃になっている。鸕野讃良(うののさらら)皇女(持統天皇)は2番目に13歳の時に妃になる。しかし、天皇家で同父母の実弟の後宮に実兄の皇女が4人も入るのは異常と言ってよい。佃氏は6~7世紀の歴史を詳しく考察し、九州に本拠地を持つ「阿毎王権(俀国)」、「上宮王権」、「天武王権」、「豊王権」がしのぎを削っていたとし、天智天皇は「上宮王権」の皇子であり、「天武王権」の天武天皇とは、もともと異なる王権に属していると述べる。どうして、『日本書紀』は史実を反映していないかについては、68号に詳しく考察されている。史実とは異なる歴史解釈による現在の定説からは、様々な「謎」が生まれる。持統天皇は天武天皇の墓である野口王墓古墳(大内陵)に合葬されている、とするのが現在の定説である。『日本書紀』と『本朝皇胤招運録』の記述を比較し、評価した後、持統天皇は定説とは異なり、中尾山古墳(檜前安古岡陵)に埋葬されているとする。野口王墓古墳(大内陵)の中には、天武天皇のものと見られる棺の横に金銅製の桶が置かれていたという。この桶は持統天皇の骨臓器とみる説があるが、実は、この中に納められていたのは額田姫王の人骨であると述べる。天武天皇に愛されていた額田姫王は死後に埋葬されていたが、天武天皇の葬儀の後に、高市天皇によって、墓から取り出されて天武天皇と同じ野口王墓古墳(大内陵)の中に入れられたのではないか、と述べる。天武天皇と合葬されているのは、持統天皇ではなく額田姫王であるとする。定説とは異なる説を提出していて大変興味深い。尚、高市皇子は天武天皇の死後、皇位に就き、高市天皇となったことは、佃氏の多くの論文の中で実証している。

7後半、8初 高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者          

高松塚古墳の極彩色壁画は、発見当時多くの人を驚かせ、記念切手も発行された。また、今世紀に入って、壁画の保存のため、石室を解体したことも大きな反響を呼んだ。キトラ古墳も同様である。高松塚古墳では周の時代から東洋で暦を作るときに使われる星座「星宿」、天帝の座とされる「紫微垣」が天井に描かれ、キトラ古墳では天井に天文図が描かれている。また、この2つの古墳は天武陵(野口王墓古墳)と同じように藤原京の中軸線上に精確に位置している。このことなどから、天皇、皇后、皇太子クラスの墓と考えられているが、未だに被葬者は特定されていない。
『極彩色壁画発見 高松塚古墳・キトラ古墳』(廣瀬・建石著、新泉社)では、被葬者は誰かというコラムで、高松塚古墳は忍壁皇子、キトラ古墳は阿部御主人であるという直木孝次郎氏の説などを紹介して、諸説があり、被葬者論争はしばらく続きそうであると述べている。
天武天皇の後、高市皇子は高市天皇として即位しており、高市天皇の崩御の後、強引に持統天皇が即位し、その直後(1年後)に孫の文武天皇(軽皇子)に譲位する。高市天皇の子である長屋王は天皇の子であるから、長屋王ではなく長屋親王であり、その木簡も発見されている。『日本書紀』は、天武天皇の後の高市天皇以降の時代をすべて持統紀として記述し、文武天皇への譲位の記事で終わっている。
今までの古代史は、記紀が記述する天皇家の万世一系に固執し、天智王権と天武王権が異なる王権であることを理解せず、高市天皇も認めていない。そのため、簡単に分かるはずの被葬者の比定が恐ろしい難問になってしまった。
コロンブスの卵の議論のように、佃氏は被葬者を明快に特定している。高松塚古墳は高市天皇、キトラ古墳は長屋親王の墓である。高市天皇と藤原京については75(1)号論文、高市天皇と持統天皇については76(1)号論文を読むと、参考になるのではないだろうか。


区分E: A~Dまでの各時代に収まらないもの

論文番号 世紀(C) テーマ
70(1) ~前2 「日本人」と「日本語」の起源 (下) <11>
69(2) 3~7 -歴史学者へ-
科学的・論理的研究と「日本の歴史学」
(下) <10>
66(2) 前12~5初 「日本の古代」は逃亡者の歴史
-幻の「大和王権」-
(下) 4
65(2) 前12~6 「日本の歴史」と卑弥氏
-「松野連系図」の研究-
(中) 1関連
3~7中頃 「-考古学者へ-
王権と古墳
-古墳から王権の興亡が見える‐
       

3世紀後半から古墳が作られ、6世紀末から寺院が建てられ、戦国時代から巨大な城が建てられる。支配権を内外に示す巨大モニュメントは古墳から寺院へ、そして城へと変化する。前からその土地に住んでいる人たちが急に古墳を造ることはないから、やはり渡来して新たに支配を確立した勢力が古墳を造ったのだろう。しかし、古墳にはまだ分からないことが多い。天皇陵とされている各地の古墳が本当にその天皇の墓であるか、疑問の声が多く聞こえ、古墳の名称も変るようになった。世界遺産となった百舌鳥古墳群では、履中(17代天皇)陵から出土した土器の方が仁徳天皇(16代天皇)陵から出土した土器より古いことが指摘されている。また、古墳の設計に関する研究は多くない。堅田直氏の提出したⅠ~Ⅲ型の古墳類型を元にして、各地の古墳を分類する。各王権ごとに同じ類型の古墳を形成しており、古墳の類型の変化から王権の興亡を知ることができるとする論考である。有名な柳本、佐紀、百舌鳥、古市古墳群の中の各古墳の位置づけは大変興味深い。更に群馬県などの関東の古墳にも考察の範囲を広げており、古墳の分析、類型についての積極的な論を展開している。天皇陵等の正確なデータベースの構築、埋蔵物の調査が待たれ、この論考からも活発な論議が起こってほしい。

3~6前半 「前方後円墳」設計の類別-王権と前方後円墳-        

71号に続く論考である。古墳の設計では、上田宏範氏の古墳の中軸線(縦軸)を中心とする研究、椚国男氏の横軸を中心とした研究、堅田直氏の円を中心にした研究が知られている。三氏の論に接してみて、古代の人々が実際に古墳を設計して造ることを考えると、堅田氏の研究が一番妥当性が高いように感じられる。佃氏は71号で、堅田氏の説に依ったⅠ、Ⅱ、Ⅲ型への分類に基づく論を展開している。しかし、この中のⅢ型の設計は余りに複雑で、実際に古墳が造られたのかという疑問が明確になったとして、もっと簡単な分類を提起する。[後円部径]:[前方部長]:[前方部幅]の比率と「両側辺」の決め方により、Aa、Ab、Ac、B、C、D、Eの型に分類する。そのように分類すると、纒向王権、伊都国王権、崇神王権、吉備王権、貴国王権、古市王権、倭王権などのそれぞれの王権が明確に認識できると述べる。これらの考察により、近畿地方中央部全体を支配したのは、崇神王権、、倭王権だけであり、近畿地方を支配し続けたとされる「大和王権」は存在しないことが明確になったと述べる。尚、この論文は「古代史の復元」シリーズと同じように、横書きで書かれている。

4~8 「貴国の歴史」とその後-貴国から上宮王権・天智王権へ-

 「貴国」という表現は、日本書紀に11回出てくる。(神功皇后紀8回、応神天皇紀3回)『日本書紀』(岩波書店)では、百済関係の記録として日本を尊敬して「貴い国」といっているとし、「貴殿」や「貴社」と同じ様な使い方をしているのだと解釈している。ところが、自分の国を貴国と述べたりして、そのようにはとても解釈できない場合が多い。佃氏は「貴国」は固有名詞としての国名であると初めて指摘をした。「貴国」は神功皇后が熊襲征伐をして北部九州に樹立した国であるとする。神功皇后は福岡県福津市の宮地嶽神社や博多の住吉神社に主祭神として祀られており、新羅進出、熊襲征伐をしたということからも、大和朝廷というより九州の王権とした方が納得ができる。
 4世紀後半から8世紀の奈良時代まで、「貴国」の王権は日本の政治に深く影響を及ぼしていく。その経緯を順に述べている。今までの論文は、仁徳天皇の時代、上宮法皇の時代、天智王権の時代、持統天皇の時代などと各時代ごとに分析がされ、「貴国」の王権がその時代に果たした役割を詳細に述べている。それに対して、この論文は言わば「貴国」の通史である。
 万葉集に「…日本紀に曰く…」の表現が9回、「…紀に曰く…」が4回、「…日本書紀に曰く…」が2回、「…記に曰く…」が1回出てくる。従来の歴史では、「日本書紀」と「日本紀」は同じものだとしている。佃氏はなぜ「日本紀」が「日本書紀」に書き換えられたか、の理由を読み解いている。また、「古事記」の成立についての記事が正史である「続日本紀」」になぜ記載されていないのか、についても解説をしている。

~7 王権と称号                         

 「日本書紀」「古事記」等には人などの「称号」が記されている。既存の日本古代史は、大和朝廷による一元的な統治を前提として書かれているのに対し、佃説古代史は、統治する様々な王権の変化を述べていく。それぞれの時代の「称号」の変化を調べることは、「日本の古代史」の解明につながっている。
 第1部倭人の称号、第2部「耳」の称号、第3部「和気」の称号、第4部「宿禰」の称号、第5部使主と臣、第6部「連」の称号、と時代に沿って「称号」が調べられる。
 「耳」の称号は、朝鮮半島南部から「出雲」「北部九州」「大和」に伝えられている。魏志倭人伝の「投馬国」では官が「彌彌」、副官が「彌彌那利」と記されており、このことなどから「投馬国」=出雲ではないかとする。
 「和気(別)」は「烏丸の称号」であり、「宿禰」は「鮮卑の称号」である。仲哀天皇・神功皇后の時代(4世紀後半)「和気(別)」や「宿禰」の称号を持つ多くの人が来ていることから、4世紀中頃から後半に中国東北地方から多くの渡来人が来ていることが分かる。また、「宿禰」は「多羅氏」が渡来して建国した「貴国」の称号でもある。
 5世紀頃から登場する「使主」と「臣」はそれぞれの場合を詳しく検討して、「称号」ではないとする。  「連」は「倭王権」(「倭の五王」、5世紀の初め頃~530年)の「称号」として使われてきた。664年に天武天皇は「冠位二十六階」を制定する。冠位を制定すると、個人に与えられる「称号」は不要になり、これ以降、「連」や「宿禰」は称号ではなくなり、「連」「宿禰」「臣」は氏族に与えられる「姓(カバネ)」となる。
 記紀の記事の文字面をなぞるのではなく、どんな歴史的事実を表わしているのかを判断しながら読み込んできた著者にしかできない論考である。考察の結果、『先代旧事本紀』には約130年分の記事が抜け落ちている、という指摘もしている。

5~7 肥前の飛鳥-「日本史」を狂わしている「飛鳥」-        

 漢人の阿智使主は渡来してから倭王讃によって「呉(宋王朝)」に派遣された。呉からの帰国の様子を「津国に至り、武庫に及ぶ」と日本書紀が記している。従来の解釈では「津国」は摂津の国であり、「武庫」は兵庫県の武庫川としている。しかし、「津国」は島原半島であり、「武庫」は佐賀市諸富町諸富津(武庫)である。倭王讃は阿智使主に肥前の土地を与え、肥前に30の村が誕生する。この中に飛鳥村がある。「飛鳥」の地名の始まりである。
第1章 「飛鳥」地名の始まり、第2章 蘇我氏、第3章 蘇我馬子の家と墓、第4章 上宮王権と飛鳥(その後)の4章の構成である。
 第2章では、蘇我氏の活動領域が大和ではなく、肥前であることを述べる。第3章では蘇我馬子のものとされる「桃源の墓」は、定説では奈良県明日香の石舞台古墳であるとされているが、肥前にあるとして、その根拠や位置を示している。
 第4章では、上宮法皇は日本書紀でその存在が抹殺されているとして、上宮王家の系図を示す。初代は上宮法皇、2代目は上宮皇子(聖徳太子)、3代目は宝皇女(斉明天皇)、4代目は中大兄皇子(天智天皇)である。法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘に書かれているように、法隆寺は聖徳太子を祀る寺ではなく、上宮法皇を祀る寺である。また、三経義疏は上宮法皇の自筆本である。645年乙巳の変で中大兄皇子が法興寺にたてこもったことからも分かるように、法興寺は蘇我馬子が建てたのではなく、上宮法皇が創建している。
 聖徳太子は601年肥前の飛鳥から斑鳩へ宮室を移す。656年皇極天皇は「肥前の飛鳥」から「大和の飛鳥」へ移る。これを、日本書紀では「…号して後飛鳥岡本宮と曰う。」と記している。通説と全く異なるので、個々の論点については、その点についての論文を参照すると分かり易くなる。

~5 -「日本史」を狂わせている「古代地名」(一)-
「後漢時代の倭国」から「阿智使主」時代の「古代地名」
     

 既存の古代史では大和朝廷が継続して統治しているとするが、佃説古代史では、神武天皇、崇神天皇、貴国、倭の五王、物部麁鹿火王権、阿毎王権(俀国)、天武王権と統治する王権の変化を詳しく論じている。その政治的な主舞台は既存の古代史では近畿であり、佃説古代史では九州である。記紀などに記載されている古代地名は、誤まって解釈されていると佃氏は述べる。第1章 後漢時代の「倭(国)」、第2章 魏時代の「倭(国)」、第3章 神武東征と古代地名、第4章 崇神天皇と古代地名、第5章 貴国と古代地名、第6章 阿智使主と古代地名の6章構成で、それぞれの時代の古代地名が示す場所を特定していく。
 第1,2章で、後漢時代の「倭国」は朝鮮半島南部にあり、日本に渡来した倭人達が国を作り、魏に卑弥呼が朝貢した238年、日本に正式に「倭国」が誕生したと述べる。
 第3章では神武東征が史実であり、従来述べられているルートとは異って、吉野川を遡って「宇陀」に到っていることを、『宮下文書』や河内湖の古地図を使って示している。また、伊勢神宮は神武天皇の父が戦死して埋葬されたところではないか、としている。
 第4章では『桓檀古記』の記述から、「慕容廆」によって滅ぼされた中国東北地方の依羅国の王子「扶羅」が白狼山を越え、海を渡り、倭人を定めて王になったのが崇神天皇であるとし、 『日本書紀』の記事を詳しく分析することから、崇神天皇の墓は「行灯山(あんどんやま)古墳」ではなく、「椿井大塚山古墳」であることをつきとめる。現在の「山辺の道」の位置を根拠に崇神天皇陵を比定する従来の方法は杜撰であると批判する。
 佃説では、神功皇后から仁徳天皇までが支配する国を「貴国」としている。第5章では、これらの天皇の活動領域が近畿ではなく、九州や肥前南部であことを示す。元々この時代は、朝鮮半島に進出し、百済、新羅を臣民とし、407年高句麗に大敗北を喫するように、朝鮮半島での戦役が大きな比重を占める。瀬戸内海が啓開されたのは5世紀中頃とされており、この時代に近畿にある王権が朝鮮半島での戦争を継続的に展開しているとする既存の古代史は無理があるのではないか。
 第6章では、渡来してから「呉(宋王朝)」に派遣された阿智(阿知)使主が「津国に至り、武庫に及ぶ」と日本書紀に書かれた「津国」と「武庫」について述べる。従来の解釈では、『万葉集』の武庫の歌が非科学的な解釈になってしまうと、警告を発している。

5~7 -「日本史」を狂わせている「古代地名」(二)-
「倭の五王~阿毎王権」時代の「古代地名」
     

5世紀中頃から7世紀初めを考察する。既存の日本史では、百済、新羅、隋などの大陸の国々と国交を通じている王権は近畿のヤマト朝廷であるとしている。佃説では、福岡県八女郡に本拠地を置く「倭の五王」、福岡県桂川町に本拠地を置く物部麁鹿火王権、福岡県鞍手郡を本拠地とする阿毎王権(俀国)が支配権を確立していったとする。すべて九州の王権である。『日本書紀』に書かれている歴史的事件を近畿地方で起こったと解釈するので、地名の理解などに無理が生じることを指摘している。
「日本の歴史学」では、倭王武=雄略天皇としている。『古事記』に崩年干支が書かれているように雄略天皇の在位は457年~479年であり、倭王武の在位478年~525年とは異なる。むしろ、雄略天皇の在位は倭王興の在位462年~477年に近く、『日本書紀』では、倭王興の事績を「雄略紀」として記述していると指摘する。 「磐井の乱」は、「六番目の倭王」に対する物部麁鹿火による下克上であり、531年(辛亥年)に起こった。新たに王となった麁鹿火に物部木蓮子は「難波の屯倉」を献上している。この「難波」は大阪に比定されているが、九州の出来事であり、博多湾に注ぐ多々良川の北側の地域である。
次に、物部麁鹿火王権が阿毎王権(俀国)に取って代わられたことをみる。推古16(608)年小野妹子と共に、隋の裴世清等が来て、「難波」の高麗館の上に新館を造る。また、客を海石榴市(つばきいち)に迎える。また、裴世清等は阿蘇山を見ている(『隋書』俀国伝)。裴世清等は、多々良川を遡り、阿蘇山が見える「三郡山地」を越えて福岡県嘉穂郡穂波町椿(つばき)に来ている。ここから遠賀川を下ると、阿毎王権の本拠地である鞍手郡となる。すべて九州での出来事である。
阿毎王権(俀国)は中国への朝貢を百年ぶりに再開する。607年の朝貢について『隋書』俀国伝に有名な「…日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す…」の文で記されている。俀王の姓は阿毎、字は多利思比孤と明確に書かれている。従来、「日出る処の天子」は聖徳太子としているが、多利思比孤であり、阿毎王権の十五世物部大人連公である。『日本書紀』推古紀は阿毎王権(俀国)の記録である、と言える。
元興寺の筑前での創建、蘇我氏の出自、「日羅」の事件の地理も述べられている。

6~8 -「日本史」を狂わせている「古代地名」(三)-
「豊王権~天武王権」時代の「古代地名」
     

 「日本の歴史学」は、『記紀』が述べる言葉通りに万世一系の天皇が大和朝廷として日本を支配してきたとする。これに対して、新しい日本史(佃説)は「九州年号」や『記紀』の記事の内容を詳しく検討して、667年に天武天皇が大和入りするまでは、北部九州の阿毎王権(俀国)、豊王権、上宮王権、天武王権が支配権を競ってきたとする。
 用明天皇や推古天皇の豊王権の本拠地である豊浦や小墾田は奈良の飛鳥付近にあったとされているが、九州肥前の三根郡や鳥栖市にあった。また、孝徳天皇は難波に遷都した後、磯長谷古墳群(大阪府太子町)に埋葬されるが、この陵の被葬者の特定が用明天皇と推古天皇では逆であり、現在聖徳太子の墓とされている陵は孝徳天皇の墓と考えられる。
 法隆寺は金堂の釈迦三尊像の光背銘に記されているように上宮法皇を祀る寺である。上宮法皇は622年2月22日に死去し、その皇太子である聖徳太子は、前年の621年2月5日に薨じている。高句麗の高僧慧慈はいたく悲しんで、翌年の同じ2月5日に死去する。『日本書紀』のこの記事は無視され、聖徳太子は622年2月22日に死去し、法隆寺は聖徳太子を祀る寺とされている。「日本の歴史学」が上宮法皇を抹殺しているからである。
 660年百済が滅亡し、斉明天皇が百済支援のため、大和から難波、伊豫、朝倉宮に行き、この宮で薨じた、とされている。しかし、天武王権の創始者である天武天皇の父が百済支援をしており、朝倉宮で死去したのは天武天皇の父である。その墓は、宮地嶽神社の中にあり、九州最大の石室と国内一級品の王冠などで知られている宮地嶽古墳である。
 天武天皇が命じて720年『日本紀』が成立する。770年に即位した光仁天皇は、上宮王権が継続しているとするために『日本紀』を改竄して『日本書紀』が作られていく。天武天皇の父を抹殺してその事績を斉明天皇の事績とする、天武天皇を天智天皇の弟にする、高市天皇の即位を打ち消して、天武天皇の後は持統天皇が即位したとすることなどが改竄の要点である。これらは、「古代史の復元」シリーズの本の中で、詳細に述べられている。

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