論 文 集 

『新「日本の古代史」(上)』、『新「日本の古代史」(中)』、『新「日本の古代史」(下)』に収録されている論文は、本の項目に(上)、(中)、(下)を示し、章の項目にはHPに記載されている各本の章を示しました。
論文番号が黄色で色付けされている論文は、まだ本の形では出版されていません。
読まれる際の参考のため、論文番号の横に大まかな時代(世紀)とテーマ、下に論文の概要を示しました。クリックすると、各論文のpdfファイルが示され、読むことができます。

区分A: 倭人の始まり ~ 邪馬壹国、神武東征 (前12C~3C)

論文番号 世紀(C) テーマ
33 前12~3 渡来弥生人と「天孫降臨」 (上) 1
70(2) 前12~前2 -考古学者へ-
「天孫降臨」と「吉武高木遺跡」の年代
(下) <12>
36 前5~3初 中国東北地方の郡の変遷 (上) 1
33 前12~3 渡来弥生人と「天孫降臨」 (上) 1
61 1~3 「朝鮮半島の倭」から「北部九州の倭」へ
-倭国王帥升・「倭国大乱」は朝鮮半島-
(上) 2
45 3(一部7) 伊都国と邪馬壹国の戦い
-邪馬壹国と狗奴国の所在地-
(上) 2
46 3 伊都国と「神武東征」 (上) 3
47 2、3 長髄彦と饒速日命と神武天皇 (上) 3
59 3 「邪馬壹国=纏向遺跡」説の考古学者に問う (上) 2関系
60 3 私案「卑弥呼の墓」 (上) 2関系
39 2、3 ホケノ山古墳とニギハヤヒ(饒速日)命 (上) 2関系
56 前12~4 「日本の歴史」と渡来人
-DNAが証明する天氏と卑弥氏の渡来-
(上) 1,4,5関係
前12~3 初期「北部九州の古代史」

『新「日本の古代史」(上)』は、倭人の渡来、女王国(邪馬壹国)、神武東征などについての論文が収録されている。歴史的舞台の中心は、北部九州である。この論考は、どの様な集団が渡来して北部九州に支配権を確立し、どの様に他の集団に奪われていくのかという、支配する集団の変化という視点から、上記論文の内容を簡潔に整理したものである。倭人は紀元前12世紀頃中国呉地方に居た。長い年月を経て、紀元前140~120年頃、倭人の中の「天氏」が北部九州に天孫降臨する。吉武高木遺跡などがその時の「天氏」の遺跡であり、須玖岡本遺跡(弥生時代中期)はその都である。一方、倭人の「卑弥氏」は前50年頃朝鮮半島南部に「倭国」を建設する。「卑弥氏」である「倭奴国」が57年に後漢王朝に朝貢して金印を賜ることなどから分かるように、博多湾沿岸の支配権は「天氏」から「卑弥氏」に移る。「天氏」は、須玖岡本遺跡(弥生時代後期)を奪われ、福岡県前原市に移り、「伊都国」を建国する。朝鮮半島の「倭国」に居た「卑弥氏」の人々は、220年~230年頃公孫氏の侵略を受け、北部九州に逃げて来て国(邪馬壹国)を建て、景初2年(238年)には魏に朝貢して卑弥呼が「倭王」となる。そして、女王国は「倭奴国」を九州島内部に押しやる。(『魏志』倭人伝では、「倭奴国」は「狗奴国」と表記されている)ところが、247年頃、卑弥呼は「狗奴国」との戦いで戦死する。一方、「倭国」と「伊都国」の争いでは、「天氏」である「伊都国」は再び敗れ、土地を捨てて、東に向かう。これが、神武東征(250~260年頃)である。266年、「倭国」の壹與は晋に朝貢する。その後、「倭国」は同じ「卑弥氏」である「狗奴国」に敗れ、歴史上の舞台から消える。「狗奴国」は『日本書紀』が述べる「熊襲」であり、この後、神功皇后が登場するまで、北部九州を支配する。


区分B: 崇神天皇、神功皇后 ~ 倭の五王 (3C~6C前半)

論文番号 世紀(C) テーマ
48 3、4 崇神天皇と夫餘 (上) 4
49 4(一部6) 貴国と宿穪-「貴国」を認めない「日本の歴史」- (上) 5
55 4、5 貴国の歴史-鵲(カササギ)が「日本の歴史」を変える- (上) 5
54 5、6前半 「倭の五王=筑紫の君」 (中) 1
62 5、6前半 「九州の王権」とその年号(その一)
「倭王武」と年号-「磐井の乱」は「辛亥年(531年)」-
(中) 1
53 4末~6前半 朝鮮半島の前方後円墳と「磐井の乱」 (中) 2関連

区分C: 倭の五王の後 ~ 俀国(阿毎王権)、上宮王権など (6C~7C前半)

論文番号 世紀(C) テーマ
63 5、6前半
(一部3、4)
「九州の王権」とその年号(その二)
「物部麁鹿火王権」と本拠地-「物部氏」の研究-
(中) 2
64 6、7初 「九州の王権」とその年号(その三)
「俀国(阿毎王権)」とその歴史
-『隋書』の「俀国」は九州の物部氏-
(中) 3
65(1) 6後半、7前半 「九州の王権」とその年号(その四)
「上宮王権」と「豊王権」-上宮法皇と聖徳太子-
(下) <5>
5末、6中頃 都塚古墳と高麗人小身狭屯倉-「亀石」は金蛙-          

奈良県明日香村の都塚古墳、真弓鑵子塚古墳の被葬者を推定している。明日香村の「古代の道」には、「猿石」や「亀石」、その先には石舞台古墳などがあり、観光地としても大変有名である。佃氏は『三国史記』、『桓檀古記』、『日本書紀』、『続日本紀』」を読み解いて、この「亀石」は「亀」ではなく、「蛙石」だとする。定説とは全く異なる解釈を説得的に展開しており、この地を訪れる際にも大変参考になる論考である。

5、6前半 筑紫舞の「肥後の翁」と江田船山古墳               

熊本県玉名郡の江田船山古墳は、明治6年地元の人物が「夢のお告げ」を受けて古墳を掘り、以後家形石棺や銀象嵌銘太刀など多くの副葬品が発見された。この太刀には一部は読み取れないが75字の銘文が記されている。副葬品は、1965年に国宝に指定され、東京国立博物館に所蔵されている。一方、1978年、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金象嵌鉄剣の115字の銘文が読み込まれ、「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」という文字が発見された。二つの刀から共通の「ワカタケル大王」が確認でき、九州と関東に支配権を持つ大王が居たことが判明した。既存の古代史では、この大王は雄略天皇としているが、佃氏は倭王武であり、雄略天皇ではないとする。江田船山古墳は2回追葬がされており、被葬者は3人である。『宋書』倭人伝は、倭王の他に13人の将軍に触れ、最初の将軍「倭隋」だけ名前が記されている。この「倭隋」が江田船山古墳の最初の被葬者であるとする。「倭隋」は倭の五王の下で活躍して支配領域を拡大し、「王位」を継承していく。佃氏はこれを「江田王権」と名付けた。古代史の復元シリーズ⑤『倭の五王と磐井の乱』に書かれた各古墳内の石棺形状、分布を整理し、この時代の権力の在り様を分析している。「筑紫舞」という古代の舞に、「肥後の翁」が何人舞であっても、出てくる。この「肥後の翁」は、「都の翁」(=倭の五王)を支えた「江田王権」であるとする。

6後半、7前半 -考古学者・歴史学者へ-
「日本史」を狂わしている「飛鳥寺」   
         

現在の日本史の定説では、飛鳥寺と法興寺と元興寺は同じ寺であるとし、587年頃に大和の飛鳥に創建されたとしている。また、法隆寺は聖徳太子を祀って建てられたとされている。しかし、金堂の釈迦三尊像の後背銘に明確に記されているように、上宮法皇の平癒を願って法隆寺は建立されており、聖徳太子は上宮法皇の皇子である。法興寺は、この上宮法皇によって596年に肥前南部に完成する。次に、元興寺は、609年に阿毎王権(俀国)によって筑前に建てられ、672年~677年の間に天武天皇によって大和の飛鳥に移築されて、飛鳥寺となることが論証される。従って、672年以前に大和に飛鳥寺は存在していない。移築された飛鳥寺の発掘調査の結果、特に基壇の様式や瓦の型式を細かく分析し、移築された際に、「1塔1金堂」の四天王寺式伽藍配置から「1塔3金堂」形式に変ったことが突きとめられる。飛鳥寺周辺の発掘調査は数十年に渡って続けられているが、7世紀中庸以前のものはまだ何も発掘されていないことが、この移築を裏付けている。また誤まった定説を根拠にするために、「高蔵43型式」の須恵器の年代が実際より80~90年も早くなり、須恵器編年は大きく間違っている、と指摘する。論拠を明確に示した論考である。

6、7前半 藤ノ木古墳の被葬者-阿毎王権と藤ノ木古墳の馬具-      

定説では、法隆寺の数百メートル西に位置する藤ノ木古墳の年代は、TK43式須恵器の年代から6世紀後半とされている。一方、窯業史を専門とする畑中英二氏はTK43式須恵器は7世紀第一四半期頃が遡りうる上限であると、異なる見解を示している。藤ノ木古墳から出土した馬具の鞍金具の毛彫り技術は非常に高い水準にあり、法隆寺玉虫厨子の透彫り金具とともに、百済金銅大香炉などの毛彫り技術がそのまま移転されていることが見えると、金工技術の専門家鈴木勉氏が述べている。また、考古学者森浩一氏は石棺の中に埋葬されている二人は母と子との可能性が考えられるとし、冠や大帯が折り曲げられており、子の方の頭蓋骨は粉々に壊れているなど、異常な埋葬のされ方であると述べている。これらのことから、埋葬されている二人は、阿毎王権(俀国)十六世の妻と子ではないかと、佃氏は推論する。この時代は、阿毎王権(俀国)と上宮王権、天武王権がしのぎを削り対立する時代である。法隆寺の再建問題とともに、大変興味深い。二人を納めた石棺や出土品の精密なレプリカを、藤ノ木古墳の直ぐ近くにある斑鳩文化財センターで見ることができる。

7前半 斑鳩京の京域                   

73(2)号論文[藤ノ木古墳の被葬者-阿毎王権と藤ノ木古墳の馬具-]、74(1)号論文[考古学者・歴史学者へ 「日本史」を狂わせている「法隆寺」-法隆寺の創建・移築から現在まで-]に続く論考である。日本書紀にあるように、上宮太子(聖徳太子)は601年に斑鳩宮を作り始め、605年に斑鳩宮に移り、613年には、難波から斑鳩宮に至る大道を造る。斑鳩宮は上宮王権の都であり、京域が形成されているのではないかとする。670年に焼失したと言われる斑鳩寺(若草伽藍)の方位は北で20度西に振れており、この方位に沿った京域である。そのように考えると、藤ノ木古墳はちょうどこの京域の外部にあり(京域と接するような位置)、阿毎王権の墓であるとする佃説を裏付けている。


区分D: 天武王権以降 (7C前半~8C)

論文番号 世紀(C) テーマ
66(1) 6後半、7 「九州の王権」とその年号(その五)
「天武王権」と「日本の歴史」(一)
-「天武天皇の父」と天武天皇-
(下) <6>
67(2) 7後半、8末 「九州の王権」とその年号(その六)
「天武王権」と「日本の歴史」(二)
-高市天皇と長屋親王-
(下) <7>
58 7後半 「白村江の敗戦」後の唐・新羅と日本 (下) <3>
50 7後半 「壬申の乱」の真相 (下) <1>
57 7 捏造された「持統」と「草壁」 (下) <2>
68 6末~8 『日本書紀』は『日本紀』の改竄
-森博達氏の「α群」「β群」による検証-
(下) <8>
69(1) 7末、8初 『古事記』成立の謎を解く (下) <9>
6末~8初 考古学者・歴史学者へ
「日本史」を狂わせている「法隆寺」
-法隆寺の創建・移築から現在まで-
         

法隆寺は現存する世界最古の木造建築で、金堂、五重塔だけでなく、多くの仏像が私達を魅了する。同時に、法隆寺には謎が多い。1939年若草伽藍の発掘調査が行なわれ、670年に斑鳩寺(若草伽藍)は全焼し、法隆寺はその後再建された寺である、というのが現在の定説となっている。ところが、五重塔の心柱の檜は、焼失した年のはるか80年程前の594年に伐採されたことが判明した。止利仏師が造った釈迦三尊像を含む多くの仏像にも、火災にあった形跡はない。一方、夢殿の本尊とされる救世観音像は、明治17年(1884年)フェノロサと岡倉天心が調査の際に、僧達の反対を押し切って蔵から取り出して見つかった。また、平成10年百済観音堂が完成し、2mを越す細身の見事な百済観音像がようやく安置されたが、この仏像は江戸時代に初めて見つかっており、どの様な経緯で法隆寺にあるのかは不明であるという。また、この像の頭に付けられている金銅製宝冠は、明治時代に土蔵から発見されたが、この像のものかは現在でもまだハッキリしていないとのことである。聖徳太子の父である上宮法皇は、現在の古代史の定説からは消されている。佃氏は上宮法皇と上宮王権を明確に記述し、そのことから、法隆寺についての謎を見事に解いている。尚、『新「日本古代史」(下)』<5>の論文65(1)号と関連が深く、この2章上宮王権の初めに釈迦三尊像と救世観音像についての考察がある。また、古代史の復元シリーズ⑥『物部氏と蘇我氏と上宮王家』第6部に法隆寺についての詳しい叙述がある。

7後半、8 藤原京と薬師寺の謎を解く              

薬師寺は、天武天皇が持統(皇后)の病気平癒を祈念して建てられたとされている。東塔は「凍れる音楽」と評され、佐佐木信綱の有名な和歌が知られている。一方、薬師寺には謎が多く、今でも論争が続いている。本薬師寺(藤原京)は、いつ頃完成したのか?新建か、移建か?現薬師寺(平城京)は、新建か、移建か?金堂と大講堂に同じような薬師三尊像が別々にあるが、それぞれどの時代に造られたものか?なぜ、薬師三尊像が二つもあるのか?…佃氏は『吉山旧記』、『和州旧跡幽考』、『薬師寺の向こう側』(室伏志畔著)に示された事柄を吟味しながら総合し、これらの謎を解いている。尚、天武天皇の皇后は683年まで「額田(姫)王」であり、中宮の持統はこの時期まだ皇后になっていない。天武天皇が病気平癒を願ったのは持統ではなく、「額田(姫)王」であったことも触れられている。

7 二つの「大化」年号                

『日本書紀』では、孝徳天皇即位前紀で「天豊財重日足姫天皇四年を改めて、大化元年とす」と記され、年号「大化」が初めて突然に現れる。「大化」以前の年号が何であったか、どうして年号が決められるようになったかは、何も書かれていない。続いて「白雉」、「白鳳」、「朱鳥」の年号が現われるが、これらは必ずしも繋がっていない。ようやく「大宝」からは『続日本紀』に示されているように、連続した年号が続いている。一方、『渤海国記』などには、孝徳天皇とは異なる時代の持統天皇の「大化」年号が書かれている。同じ年号が、異なる時代に2回もなぜ使われたのだろうか?この時代は、上宮王権、阿毎王権(俀国)、豊王権、天武王権がしのぎを削っていた時代であり、各王権はそれぞれ「九州年号」と呼ばれる年号を持っていた。この「九州年号」を読み解くことから、佃氏はこの時代の王権を解明し、同じ年号が二つの時代に現われた理由も示している。HPでは、『新「日本の古代史」(中)』の下のブログを見るというボタンをクリックすると、HP作成委員会が「九州年号」についてまとめた論考を見ることができるので、参考にしてほしい。

7~9初 『万葉集』の成立と改竄          

渡辺康則氏は『万葉集があばく捏造された天皇・天智』で、『万葉集』は、天智が天皇ではないことを告発している歌集である、と述べている。『万葉集』の解釈は分かり難いところが多い。7世紀の歴史の通説では、天皇は、斉明→天智→天武→持統の順となっているが、実際には、天武天皇の父→天武→高市天皇の順で、この時期、天智王権は支配権を持っていなかった。天武天皇の下で編纂された『日本紀』はその後の天智王権によって『日本書紀』に改竄されている。このように、実際とは異なる歴史を前提として『万葉集』が解釈されているため、『万葉集』は分かり難いはずである。また、『万葉集』も天智王権の支配とするために改竄が行なわれている。天武は天智の弟ではなく、有名な「額田王」は天武天皇の皇后であり、歌の解釈を変更する必要がある。薬師寺も、天武天皇が持統(天皇)のためにではなく、皇后「額田王」の病気平癒を願って建てたとする。抜本的に『万葉集』の解釈の変更をしなければならないとするこの論考は、それぞれの歴史的事象の年を定めながら展開されるので、筋が通っている。歴史的な考察の結果、『古今和歌集』の「仮名序」にあるように、『万葉集』は平成天皇の勅撰により成立したとする。尚、『万葉集があばく捏造された天皇・天智』の感想(HP作成委員会による)が、HPの「他の本の感想と佃收説」の項目のところにあるので、興味のある方は参照してほしい。

7後半、8初 持統天皇と額田姫王の墓          

66(1)、67(2)号などで、7~8世紀の政治的な状況が述べられ、75(1)号では薬師寺、72号では『万葉集』について掘り下げた論が展開されている。日本古代史の定説では、天武天皇は天智天皇の同父母の弟であることになっており、天智天皇の4人の娘はすべて天武天皇の妃になっている。鸕野讃良(うののさらら)皇女(持統天皇)は2番目に13歳の時に妃になる。しかし、天皇家で同父母の実弟の後宮に実兄の皇女が4人も入るのは異常と言ってよい。佃氏は6~7世紀の歴史を詳しく考察し、九州に本拠地を持つ「阿毎王権(俀国)」、「上宮王権」、「天武王権」、「豊王権」がしのぎを削っていたとし、天智天皇は「上宮王権」の皇子であり、「天武王権」の天武天皇とは、もともと異なる王権に属していると述べる。どうして、『日本書紀』は史実を反映していないかについては、68号に詳しく考察されている。史実とは異なる歴史解釈による現在の定説からは、様々な「謎」が生まれる。持統天皇は天武天皇の墓である野口王墓古墳(大内陵)に合葬されている、とするのが現在の定説である。『日本書紀』と『本朝皇胤招運録』の記述を比較し、評価した後、持統天皇は定説とは異なり、中尾山古墳(檜前安古岡陵)に埋葬されているとする。野口王墓古墳(大内陵)の中には、天武天皇のものと見られる棺の横に金銅製の桶が置かれていたという。この桶は持統天皇の骨臓器とみる説があるが、実は、この中に納められていたのは額田姫王の人骨であると述べる。天武天皇に愛されていた額田姫王は死後に埋葬されていたが、天武天皇の葬儀の後に、高市天皇によって、墓から取り出されて天武天皇と同じ野口王墓古墳(大内陵)の中に入れられたのではないか、と述べる。天武天皇と合葬されているのは、持統天皇ではなく額田姫王であるとする。定説とは異なる説を提出していて大変興味深い。尚、高市皇子は天武天皇の死後、皇位に就き、高市天皇となったことは、佃氏の多くの論文の中で実証している。


区分E: A~Dまでの各時代に収まらないもの

論文番号 世紀(C) テーマ
70(1) ~前2 「日本人」と「日本語」の起源 (下) <11>
69(2) 3~7 -歴史学者へ-
科学的・論理的研究と「日本の歴史学」
(下) <10>
66(2) 前12~5初 「日本の古代」は逃亡者の歴史
-幻の「大和王権」-
(下) 4
65(2) 前12~6 「日本の歴史」と卑弥氏
-「松野連系図」の研究-
(中) 1関連
3~7中頃 「-考古学者へ-
王権と古墳
-古墳から王権の興亡が見える‐
       

3世紀後半から古墳が作られ、6世紀末から寺院が建てられ、戦国時代から巨大な城が建てられる。支配権を内外に示す巨大モニュメントは古墳から寺院へ、そして城へと変化する。前からその土地に住んでいる人たちが急に古墳を造ることはないから、やはり渡来して新たに支配を確立した勢力が古墳を造ったのだろう。しかし、古墳にはまだ分からないことが多い。天皇陵とされている各地の古墳が本当にその天皇の墓であるか、疑問の声が多く聞こえ、古墳の名称も変るようになった。世界遺産となった百舌鳥古墳群では、履中(17代天皇)陵から出土した土器の方が仁徳天皇(16代天皇)陵から出土した土器より古いことが指摘されている。また、古墳の設計に関する研究は多くない。堅田直氏の提出したⅠ~Ⅲ型の古墳類型を元にして、各地の古墳を分類する。各王権ごとに同じ類型の古墳を形成しており、古墳の類型の変化から王権の興亡を知ることができるとする論考である。有名な柳本、佐紀、百舌鳥、古市古墳群の中の各古墳の位置づけは大変興味深い。更に群馬県などの関東の古墳にも考察の範囲を広げており、古墳の分析、類型についての積極的な論を展開している。天皇陵等の正確なデータベースの構築、埋蔵物の調査が待たれ、この論考からも活発な論議が起こってほしい。

3~6前半 「前方後円墳」設計の類別-王権と前方後円墳-        

71号に続く論考である。古墳の設計では、上田宏範氏の古墳の中軸線(縦軸)を中心とする研究、椚国男氏の横軸を中心とした研究、堅田直氏の円を中心にした研究が知られている。三氏の論に接してみて、古代の人々が実際に古墳を設計して造ることを考えると、堅田氏の研究が一番妥当性が高いように感じられる。佃氏は71号で、堅田氏の説に依ったⅠ、Ⅱ、Ⅲ型への分類に基づく論を展開している。しかし、この中のⅢ型の設計は余りに複雑で、実際に古墳が造られたのかという疑問が明確になったとして、もっと簡単な分類を提起する。[後円部径]:[前方部長]:[前方部幅]の比率と「両側辺」の決め方により、Aa、Ab、Ac、B、C、D、Eの型に分類する。そのように分類すると、纒向王権、伊都国王権、崇神王権、吉備王権、貴国王権、古市王権、倭王権などのそれぞれの王権が明確に認識できると述べる。これらの考察により、近畿地方中央部全体を支配したのは、崇神王権、、倭王権だけであり、近畿地方を支配し続けたとされる「大和王権」は存在しないことが明確になったと述べる。尚、この論文は「古代史の復元」シリーズと同じように、横書きで書かれている。

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