新「日本の古代史」(中)
作成委員会の読後感想

本書は、「古代史の提言」シリーズ第2作である。
第1作『新「日本の古代史」(上)』は、日本に倭人が到来した経路を辿ることから始まる。倭人は呉の太伯の後裔であると言われ、紀元前1200年頃には倭人は中国の呉地方(長江の下流域)に居た。ここからどのような経路を辿って到来したかを、詳細に展開する。天孫降臨や卑弥呼の倭国(邪馬壹国)建国、神武天皇の東遷、崇神天皇の渡来についても、文献や古墳から発掘された資料等を分析し、詳細に述べている。神功皇后が熊襲征伐して北部九州に4世紀後半に建国し、5世紀初頭くらいまでは存在した貴国は一般的には知られていない。しかし、日本書紀を偏見のない目で見れば明らかに貴国は存在し、次に台頭する倭国に追われて、貴国の王や将軍が九州から大和や大阪に逃れていくことまでが、『新「日本の古代史」(上)』に述べられている。

続いて、本書『新「日本の古代史」(中)』は、貴国が滅びた後の倭の五王(410年ころ~531年)を第1章、物部麁鹿火王権(531年~552年)を第2章、俀国(阿毎王権)(552年~634年)を第3章、「日本の古代」は逃亡者の歴史を第4章にあてている。
第1章、倭の五王では、讃・珍・済・興・武の在位年代を文献資料を基に確定することから出発し、「宋書」から宋王朝に朝貢した年や朝貢した内容を明確にし、倭の五王は筑紫君であること、筑紫君の本拠地は八女古墳群のある筑後地方であることを確定する。宋王朝に倭王が派遣した身狭村主青等が王に報告のため有明海に入り、筑後の三潴に上陸している。王が大和に居るはずがなく、王は筑後に居る。また、倭王武は雄略天皇でないことを論証している。
更に、「磐井の乱」の磐井は筑紫国造ではなく、倭の五王武の後の王葛(または哲)であり、磐井の乱は、主君である筑紫君(倭王)を臣下である物部麁鹿火が伐った乱であることを突き止めている。この他、朝鮮半島の前方後円墳、岡山の巨大な前方後円墳(造山古墳等)についてもその由来等が詳細に説明されている。
1章だけで100ページを超える労作であり、様々な資料を使って常に時と場所を確定しながら論を進める論考は大変説得力がある。

第2章では物部氏の出自が明確にされ、系譜が詳細に辿られる。倭王を倒した(磐井の乱)物部麁鹿火王権は、筑前、肥前などを支配して3代続く。
任那日本府は、倭王済が朝鮮半島南部に5世紀半ばに設置した。しかし、6世紀前半任那の金官国など三国は新羅によって滅ぼされる。物部王権は百済と協力して任那復興を企てるが、562年任那諸国は新羅によって滅ばされる。この間の具体的展開も詳述されている。
尚、朝鮮使節などに対する施設で「難波の高麗館」、「難波祝津宮」などが日本書紀に出てくる。この難波は従来大阪であるとされてきたが、仁徳天皇の場合と異なり、筑紫の難波である。多々良川の河口付近にあったことが、その理由と共に詳しく述べられている。

第3章は、「隋書」俀国(たいこく)伝の指摘から始まる。一般には、「隋書」俀国伝は「隋書」倭国伝とされている。しかし、「隋書」は俀国伝と明記している。600年、俀国は隋に朝貢して、その記事が「隋書」俀国伝に「…俀王の姓は阿毎、字は多利思比孤、…有阿蘇山…」と記されている。また、607年の朝貢の記事は有名な「…其国書曰日出処天子致書日没処天子、無恙云云。…」である。倭国ではない俀国があり、俀国は、隋に朝貢している。その点を明確にするため、本書では、王の名前を使って、俀国を「阿毎王権」と表している。「日出処天子」は聖徳太子や推古天皇ではなく、阿毎王権の多利思比孤である。
阿毎王権は、物部麁鹿火王権の後552年から634年まで、筑前、肥前、豊前、瀬戸内海沿岸、大和の高市郡、紀国などを支配領域とし、外国に対しては百済を援助し新羅に対しても活発な活動を展開する。また、隋の使節裴世清を迎えている。阿毎王権は北部九州鞍手郡を本拠地とする物部氏であり、樹立者は十三世物部尾輿であることが示され、王権の系譜や仏教の受容等様々な業績が考察されている。

第4章は、「日本の古代は」逃亡者の歴史と題して、「天氏」、「卑弥氏」の渡来以降、日本に渡来してきた氏族を天皇を含めて時系列で整理して記述している。6世紀後半中国から初めて阿毎王権に干支が伝えられた。6世紀後半より前に崩年干支がある天皇は渡来人であることが、そのことからも示されているとして、歴代の天皇を列記し、考察している。
以上がおおまかな本書の内容である。

天皇制を否定したいために天皇制の万世一系を排撃する人々、逆に天皇制を擁護するために万世一系に固執する人々…このような人々から距離を取り、私たちは史実に立脚した日本の歴史を必要としている。
イギリスは紀元前にローマ人に支配されている。その後、ヴァイキングその他の侵略が続いたが、11世紀ノルマンジー公ウィリアムがこの島に攻め込んでウィリアム1世として、ノルマン王朝を始めた。エリザベス女王もウィリアム1世を祖先として語っている。千年ほど続いているこの王朝の権威は保たれている。ユーラシア大陸の西の島イギリスでは、大陸から多くの渡来・侵略があった。東の島日本に多くの渡来・侵略がない訳がない。万世一系でなくとも、イギリス以上に継続している日本の皇室の権威は保たれるのではないか。 現在日本文化は、東洋の文化の土台の上に西洋の文化を吸収し、歴史上かつてないような融合した文化を作り出している。このような文化が生まれた背景には、古代から多様な文化の潮流が日本に注ぎ込まれているのではないか、と考える。そのことを理解するためにも、史実に基づく日本古代史が必要である。

既存の日本古代史では、天孫降臨の地は宮崎県の日向(ひむか)とされている。しかし、『新「日本の古代史」(上)』に詳しく述べられているように、福岡県日向(ひなた)である。また、未だに新聞等では奈良県の箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとしているが、多くの識者が指摘しているように邪馬壹国は北部九州にあり、『新「日本の古代史」(上)』では、福岡市南区から大野城市・筑紫野市・小郡市にかけての丘の上に卑弥呼の墓があるとしている。その他、この本では貴国や俀国(阿毎王権)の存在を確認し、倭の五王の本拠地は筑後であること等を述べている。
既存の日本古代史と異なる見解をもつ古代史に初めて接する方は、違和感を持たれるかもしれない。しかし、丁寧にこの本を読み進んでいくと、すべてのことに筋が通っていることが分かり、明瞭な日本古代史の輪郭を得ることができる。逆に、大和朝廷を中心に記述する日本古代史はいつも輪郭があいまいで(時と場所がハッキリしない)、霧の中に居るように、多くのことが謎だらけであるように感じる。
日本の将来を考える意味でも、過去を正しく知ることが必要で、史実に基づいた日本古代史が求められている。日本古代史が史実に基づいて解明されるように、この本が多くの方々に読まれることを願っています。
尚、俀国(阿毎王権)の後の天武王権と天智王権については、すでに古代史の復元シリーズで述べられていますが、新たな見解を加えて『新「日本の古代史」(下)』に述べられる予定と思われますので、(下)にも多くを期待しています。
(平成27年9月7日 作成委員会代表 本多)

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