新「日本の古代史」(上)

第1章

弥生時代の「倭人」と「天孫降臨」

紀元前1200年ころの「倭人」は中国呉地方に居た。日本は縄文時代である。約1000年をかけて「倭人」は中国大陸を北上し、渤海沿岸をまわり、朝鮮半島南部を経て、北部九州に渡来している。
「倭人」の一派である「天氏(安冕辰ウン氏)」は山東省の臨シを通り、ラン河の東(遼東)で箕子朝鮮と混血する。渤海沿岸を通り、大凌河の下流に在る医巫閭山の近くに建国する。「卑弥氏に国を譲り、朝鮮半島南部に「高天原」を建国する。前漢時代に北部九州に移る。これが「天孫降臨」である。
天孫降臨の地は福岡県福岡市西区の「吉武高木遺跡」である。「大型建物跡(長井宮)」と「墓(木棺・甕棺)」が出土している。『宮下文書』(『神皇紀』)に記録されている通りの遺跡が発掘された。
『宮下文書』は史実を正確に記録している。
天孫降臨のとき一部は有明海から佐賀県南部に上陸する。吉野ヶ里遺跡をはじめとして、甕棺墓を埋設する文化がはじまる。
天氏は吉武高木遺跡から前原市へ移り、「伊都(いつ)国」を建国する。対海国・一大国・末廬国・奴国・不彌国を支配して「伊都国王朝」を樹立する。
「倭人」の移動ルートを究明しているときに「中国の古代史」で「地名」の解釈が間違っていることに気付いた。
「万里の長城」の位置、「遼東」の位置、「箕子朝鮮」の位置、「漢の武帝が設置した四郡」の位置、「衛満朝鮮」の位置等はすべて間違っている。
『契丹古伝』に「天氏」は「殷(箕子朝鮮)と姻を為す」とある。「箕子朝鮮」の位置が重要になる。

第2章

後漢時代の「倭」と卑弥呼の「倭国」

原本とは論文39,45,61号の順番を変えてあります

(1世紀~3世紀中頃)
日本の古代の時代区分は大陸からの渡来人が新しい文化をもたらしたからである。
「桓帝・霊帝の末(160年、180年)」に朝鮮半島では「韓」と「ワイ」が近隣諸国を侵略する。
「韓」の南には「倭国」が在った。107年には「倭国王帥升」が居た。「倭国」は「韓」の侵略を受けて乱れる。これが「倭国大乱」である。
「韓」に追われて日本列島へ逃げて来た人々の一部は岡山県倉敷市に「楯築墳丘墓」を造る。
「ワイ」に追われた人々は朝鮮半島の東海岸に沿って南下し、日本海を渡り、山陰や北陸地方に「四隅突出型墳丘墓」を造る。
204年に公孫康は「韓」と「ワイ」を伐つ。追われて日本列島へ逃げた人々の一部は奈良県に入り、纒向遺跡を築く。「庄内式土器」がもたらされる。「古墳時代」の幕開けである。
「卑弥呼」は朝鮮半島南部の「倭国」の中の「卑弥国」の出自である。卑弥呼とは「卑弥国(卑弥氏)の出自で名を呼」という。
220年~230年ころ、公孫氏に追われて北部九州に逃げて来て邪馬壹国(福岡市南区~小郡市)を建国する。伊都国王朝と戦い、勝利して「景初二年(238年)」に朝貢し、「倭王」となる。日本列島に初めて「倭国」が誕生する。
卑弥呼の墓は福岡県小郡市の「津古生掛古墳」である。
狗奴国はその南の甘木市・朝倉郡にある。

第3章

神武東征(逃亡)と長髄彦

(3世紀後半~4世紀前半)
220年~230年ころ、朝鮮半島の蔚山(ウルサン)から饒速日命が奈良県桜井市に渡来する。長髄彦の娘を娶り宇摩志麻治命を生む。ホケノ山古墳は饒速日命の墓である。長髄彦は纒向遺跡の王であり、箸墓古墳は長髄彦の墓である。
260年ころ伊都国王朝は邪馬壹国(倭国)との戦いに敗れる。王(神武天皇の父)は「伊都国(伊勢)・斯馬国(志摩)」の人々を率いて永住地を求めて三重県まで来る。伊賀で先住民と戦い戦死する。「伊都国王(伊勢国の王)」が埋葬された地が「伊勢神宮」となる。
「伊都国(伊勢)・斯馬国(志摩)」の人々が住み着いたところが今の「伊勢志摩」である。
265年ころ五瀬命は伊都国の人々を連れて永住地を求めて東へ逃げる。「神武東征(逃亡)」である。「五瀬(いつせ)命」とは「伊都(いつ)国の太子で名を瀬(せ)」という。
大阪の河内湖で長髄彦と戦い戦死して和歌山市に埋葬される。他の二人の兄も戦死する。神武天皇は和歌山県海南市(熊野)に来る。そこから内陸に入り、貴志川を下り、紀ノ川に出る。紀ノ川の支流の丹生川に一時建国する。そこが「紀伊国伊都郡」になる。吉野川を遡り、宇陀に出る。宇陀郡菟田野町に見田・大沢古墳群がある。四号墳から三種の神器が出土している。天孫降臨した「伊都国の神器」である。鏡は絹に包まれていた。絹を生産しているのは北部九州だけである。見田・大沢四号墳は「神武東征(逃亡)」が史実であることを立証している。
神武天皇は纒向遺跡の王である長髄彦と戦うが苦戦する。このとき宇摩志麻治命は長髄彦を殺して神武天皇に帰順する。神武天皇は纒向遺跡を支配して畿内を統一する。神武天皇の墓は桜井茶臼山古墳である。

第4章

崇神天皇の渡来

(3世紀~4世紀前半)
崇神天皇は渡来人である。崇神天皇は宮殿に天照大神・倭大国魂の二神を祀る。しかし共に住むのが不安であるという。そこで大国魂神を渟名城入姫命(ぬなきいりひめ)に祭らせる。然るに渟名城入姫命は髪は落ち、体は痩せ、祭ることができなかったとある。日本古来の神々は崇神天皇にとっては異宗教なのであろう。
また崇神天皇の世に疫病が蔓延して人民の大半が死亡したという。崇神天皇等が新しい病原菌を持ち込んだのであろう。
『古事記』に崇神天皇の崩年干支がある。崇神天皇は「318年」に崩じている。この時代に干支を使っているのは中国だけである。崇神天皇は中国からの渡来人であろう。
崇神天皇は瀬戸内海から淀川に入り、石清水八幡の「那羅山(京都府八幡市奈良)」に登り、行き先を木津川に決めて、木津川市椿井に住む。
木津川を挟んで武埴安彦と戦い勝利する。崇神天皇の墓は椿井大塚山古墳である。
崇神天皇は四道将軍を派遣して日本列島を支配する。日本列島を統一した最初の天皇(王)である。
『桓檀古記』に、「285年」に依羅国は鮮卑慕容カイに敗られて王は自殺し、子の扶羅が従者数千人を従えて白狼山を踰えて海を渡り、倭人を定めて王と為るとある。王子扶羅が「318年」に死去した崇神天皇であろう。
崇神天皇は大彦の娘を娶り、垂仁天皇を生んでいる。大彦は王子扶羅(崇神天皇)を助けて、「倭城」から渡来したのではないだろうか。「大彦」は日本語である。「倭城」は「卑弥氏」の故郷である。「大彦」は「卑弥氏」であろう。

第5章

貴国

(4世紀後半~5世紀初)
日本に「貴国」が存在したことを国民は知らない。「日本の歴史学者」が貴国を認めていないからである。
しかし「日本の歴史」で活躍する蘇我氏・巨勢氏・平群氏等は「貴国の宿禰(将軍)」である。
貴国は熊襲征伐をして「364年」に北部九州(筑前・肥前)に樹立した渡来人の国である。貴国の宿禰の本拠地は筑前・肥前である。
好太王碑の「倭」は「貴国」である。好太王碑に「辛卯(391)年に倭が海を渡り百済・新羅を臣民にした」とある。翌392年に『日本書紀』には「百済の辰斯王が貴国の天皇に無礼をした。そこで四人の宿禰を派遣すると百済国は王を殺して謝った」とある。前年の「391年に百済は貴国の臣民になっている」からである。
「倭の五王」の「倭国」が筑後に樹立するのは「410年」頃である。「391年」には「倭国」はまだ存在しない。
好太王碑に「407年」に「倭国」は高句麗と戦い壊滅的な打撃を受けたとある。これも「貴国」である。
倭讃・弟の珍は中国大凌河の上流の倭城で生まれ育った「卑弥氏」である。400年ころに「筑後」に渡来して衰退した貴国を敗り、「倭国」を建国する。「倭国」を称するのは「卑弥氏」である。「倭の五王」の時代がはじまる。
貴国の最後の天皇は「仁徳天皇」である。本拠地は佐賀県三養基郡みやき町白壁である。仁徳天皇は高句麗との戦いに敗れて、倭国に追われ、難波へ逃げる。仁徳天皇は土地を得るために「難波の堀江」を造り、河内湖の水を海に流す。こうして広大な土地を手に入れる。難波は繁栄して仁徳天皇は聖帝と呼ばれる。貴国が肥前から難波へ移ったのである。

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